はじめに
令和7年度(2025)は、終戦から80年という節目の年に当たります。これに合わせて、当館では企画展「野田市域の人々と昭和の戦争」展を1月4日(土)~3月23日(月)まで開催しています。今回の学芸員コラムでは、戦争に関する収蔵資料のなかから、明治42年(1909)8月に茨城県猿島郡に生まれ、野田町で暮らし、昭和20年(1945)に硫黄島で戦死した張替清という一人の人物に関する資料を紹介します。なお、彼は野田で婿入りして姓が変わることから、文中では「清さん」と記すことにします。
〈資料1〉:昭和11年5月「表彰状」(資料番号9204)
この表彰状は、野田醤油株式会社(現・キッコーマン株式会社)から、清さんに贈られたものです。上海事変に出征し勲八等白色桐葉章をもらったことが称えられています。
彼は、野田醤油株式会社第9工場の工員として働いていました。同社の醤油醸造施設は「工場」と呼ばれており、それぞれに番号が振られていました。第9工場は、もとは醤油醸造家・茂木佐平治家の醸造蔵(西蔵・第4醸造所)で、明治43年(1910)より「キッコーマン」印の醤油がつくられていた場所です。なお、工員とは、工場内で機械類を操作するなど、醤油醸造に直接携わっていた人のことを指しています。
〈資料2〉:昭和11年5月「座卓」(資料番号9126)
一見すると何の変哲もない座卓ですが、天板の裏側に、朱書きで「上海事変叙勲記念 贈 張替清君 昭和十一年五月十四日 野田醤油株式会社」と記されています。〈資料1〉の表彰状と同じ日付であることから、この座卓が表彰状とともに贈られた記念品であることがわかります。なお、ここでの上海事変とは、昭和7年に上海に上陸した日本軍と中国軍が衝突した事件である、第1次上海事変を指しています。さて、清さんは、どのような立場でこの事件に関わっていたのでしょうか…。
〈資料3〉:昭和5年「四等機関兵修業記念」(資料番号9203)
これは、海軍の横須賀海兵団で機関兵としての訓練を修了したことを記念して贈られた冊子です。海兵団とは、海軍に入った新兵などを訓練するための部隊です。冊子には、「入団の日」、「入団式」に始まり、兵団生活の場を記した「我等の糧((かて))」、「我等の塒((ねぐら))」や、「機関術」、「焚火教練((ふんかきょうれん))」、「艦務実習」といった約4ヶ月にわたる訓練の様子などが、100字程度の簡単な文章と写真で紹介されています。また、冊子の末尾には、海兵団長を筆頭に海兵団の構成員の氏名が記されており、その中には訓練を受けた兵士たちも含まれています。ここから、清さんは昭和5年1月に横須賀海兵団に入団し、4等機関兵として第34分隊第12教班に所属していたことがわかります。
〈資料4〉:写真アルバム「帝国軍艦鳳翔」(資料番号9197)
この資料の表紙には「帝国軍艦鳳翔」という刺繍が施されています。アルバムに収められた写真には、清さんが特務艦・富士に乗艦していた頃のものや、同期の兵士たちとの記念写真のほか、野田醤油株式会社に勤務していた頃の写真も含まれています。旧海軍軍人の軍歴が記されている履歴原表には、昭和5年5月より3等機関兵として特務艦・富士に、翌6年11月から8年5月まで航空母艦・鳳翔に乗艦しており、階級は6年5月に2等機関兵、7年11月には1等機関兵となったことが記録されています。
〈資料5〉:昭和8年「技倆証明書」(資料番号9207)
〈資料6〉:昭和8年「服役優等証」(資料番号9208)
この2点の資料は、当時、海軍1等機関兵となっていた清さんが鳳翔への乗艦を終える際に贈られたものです。〈資料5〉の「技倆証明書」は、船の動力源であったボイラーと蒸気機関の運転などを行う機関兵としての技量に熟達していることの証明として、鳳翔の機関長であった海軍機関中佐・中村俉郎より授与されました。〈資料6〉の「服役優等証」は、兵役を務めている間の素行がとても良く、機関兵としての知識や技能に優れていることの証明として、鳳翔の艦長であった海軍大佐・三竝貞三より授与されています。
兵役を終えた清さんは、この後、野田醤油株式会社での勤務に戻ることとなりました。昭和9年の1月1日には、帝国在郷軍人会の野田町分会と野田醤油株式会社工場分会による新年祝賀式典が行われ、感謝状を授与されています(資料番号9205)。
〈資料7〉:昭和9年8月「修了証書」(資料番号9212)
〈資料8〉:昭和10年7月「修了証書」(資料番号9213)
野田醤油株式会社に戻った清さんは、第9工場の工員として勤務を続けていきます。〈資料7〉は会社が主催する修養講習会の修了証、修養講習会とは、会社の重役・社員・工員の信頼を深めることを目的に、毎夏3泊4日にわたって行われた行事です。当初は、清水公園に隣接する寺院・金乗院などで開催されましたが、後に、静岡県の御殿場に会場が移されています。〈資料8〉は学術講習会の修了証です。学術講習会とは醸造学や工場管理、役付職工の任務などを習得するために開催され、各工場から選抜された中堅職工が受講しました。
〈資料9〉:昭和14年3月「賞状」(資料番号9209)
〈資料10〉:昭和14年6月「賞状」(資料番号9210)
〈資料9〉の賞状は、千葉県工場協会より、10年にわたって同じ工場で勤務し続けたことを称えて贈られたものです。このことから、清さんは、昭和5年1月に横須賀海兵団へと入団する以前より、野田醤油株式会社に勤めていたことがわかります。この千葉県工場協会からの表彰を受けて、野田醬油株式会社からも多年にわたる同一事業への勤続を称える賞状が授与されています。これが次のページに載せた〈資料10〉の賞状です。
なお、賞状の宛先が「古谷清」となっていますが、これは昭和11年に婿として古谷はつさんと結婚したためで、この頃には2女の子宝に恵まれていたようです。
〈資料11〉:昭和15年8月「修了証書」(資料番号9206)
この資料は、東京工場協会主催の汽罐士講習会において、2級汽罐士の講習を修了したことを証明したものです。2級汽罐士とは、内務省令として昭和10年5月1日より施行された汽罐取締令のなかで定められた資格です。汽罐の取締り自体はそれ以前から各道府県が地方庁令として定めてきましたが、このときに全国的な法令として整えられました。
汽罐士の資格には1級と2級があり、この免許を持つ者が汽罐の取り扱いに従事することが定められました(第31条)。ただし、汽罐の取り扱いに従事する者全てがこの資格を持つ必要はなく、汽罐士による監督の下で働く場合、この資格は不要でした(同31条)。
兵役で機関兵として服務していた清さんは、汽罐士の免許を取得する学識は持ち合わせていたと考えられますが、講習会の修了が汽罐取締令施行から5年後であることから、勤務先である第9工場内での地位の上昇に伴って受講したのでしょう。会社内で、工員として着実にステップアップしていた清さんの姿を窺うことができます。
これ以降、清さんの動向を示す資料はほとんどありませんが、前にも少し触れた清さんの履歴原表には、おおよそ、以下のような内容が記されています(文言を分かりやすく書き改めたほか、一部省略している箇所があります)。
昭和16年10月25日 充員召集により応召横須賀海兵団に入団。
11月20日 横須賀第1海兵団の所轄となる。
昭和17年10月30日 7月1日に生まれた長男の誕生を通知する。
11月1日 海軍機関兵長に任じる。
12月11日 父島方面特別根拠地隊の所轄となる。
昭和18年 9月 2日 硫黄島の派遣隊勤務を命じる。
11月 1日 海軍2等機関兵曹に任じる。
昭和19年 3月15日 硫黄島警備隊の所轄となる。
6月1日 普通善行章を付与する(2線目)。
11月1日 海軍1等機関兵曹に任じる。
昭和20年4月29日 前年の2月13日に死去した長男の訃報を通知する。
昭和20年3月17日 海軍上等機関兵曹に任じる。
昭和20年3月17日 戦死。
昭和16年10月に再び海軍機関兵となった清さんでしたが、履歴原表には、上海事変の頃のように、配属先として軍艦の名称が記されていません。小笠原諸島を担当する第7根拠地隊を再編した父島方面特別根拠地隊に配属されたのです。この部隊は、父島・母島周辺海域の防備、哨戒、索敵攻撃、海上交通保護を主な任務としており、部隊には掃海艇や駆潜艇などの小型の艦艇が配備されていました(以下の「父島方面特別根拠地隊の軍隊区分」を参照)。
昭和19年3月の「父島方面特別根拠地隊戦時日誌」には、「当方面、敵潜水艦ノ出現状況極メテ頻繁ナルヲ以テ、各基地及輸送船団ノ対潜警戒ヲ厳ニス」と記されており、当時の緊迫した状況が伝わってきます。この日誌には、①硫黄島基地輸送、②父島-横須賀間、②横須賀-サイパン間、③父島-サイパン間、などの船団護衛を任務としていたことが記されています。清さんは、昭和18年後半からは硫黄島の派遣隊として勤務するようになり、翌年3月に硫黄島警備隊に配属されますが、それまでは、おそらくこうした任務に従事していたのかもしれません。
硫黄島の戦いについては、いくつもの体験記が残されているため、ここでは詳しく触れませんが、アメリカ軍を迎え撃つために昭和19年10月から陣地の構築が始まると、脱水症状と栄養失調で倒れる兵が続出するなど、戦闘が始まる以前から過酷な状況だったようです(久山忍『英雄なき島 新装版』潮書房光人新社、2024年)。
硫黄島の戦いは、昭和20年2月16日にアメリカ艦隊による艦砲射撃が開始され、19日の上陸後、3月17日夜に行われた日本軍による総攻撃を最後に組織的な戦闘が終わったとされています。この戦いのなかで、清さんがどのように亡くなられたのか、その真実を知る術はありませんが、履歴原表には昭和20年3月17日が戦死した日として記されています。また、履歴原表とあわせてご遺族が入手した功績調査票には「3.17戦死 硫黄島ニ於テ敵攻略部隊ト交戦中総員玉砕死認」と記されています。
なお、履歴原表には、長男の誕生と死去について通知が行われていたことが記されています。家族から離れて出征した清さんにとって、長男誕生の知らせは、大変嬉しいものであったに違いありません。残念なことにこの子は幼いうちに亡くなってしまいますが、履歴原表の日付が正しいとすれば、硫黄島にいた清さんは、その訃報に接することなく戦死されたのです。
〈資料12〉:昭和20年 写真(戦没者合同慰霊祭)(資料番号9197のうち)
この写真は、戦没した野田醤油株式会社の従業員を弔うための慰霊祭の様子を撮影したものです。慰霊祭の会場となったのは、興風会館の大講堂でした。興風会館とは、昭和4年に竣工した財団法人興風会の建物です。建築家・大森茂設計のロマネスク様式を加味した近世復興式で、1階には野田町立図書館から蔵書を引き継いだ興風会図書館が入り、2~4階部分には1,000人以上の収容人数を誇る大講堂や、和室がありました。興風会館では、興風会の3つの柱である「教化事業」「保健娯楽事業」「救済事業」の場として、さまざまな活動が行われていました。
興風会館で行われた催事などを記録した『興風会日誌』には、昭和20年11月17日(土)に、野田醤油株式会社の戦没者慰霊祭が大講堂で執り行われ、800人の来場があったことが記録されています。
おわりに
本コラムでは、企画展「野田市域の人々と昭和の戦争」にあわせて、戦争に関わる当館の収蔵資料を紹介しました。高齢化により戦争を体験した方が少なくなっているなかで、こうした方々が残した資料の重要性が高まっていくのではないでしょうか。本稿をとおして、皆様方が戦争について考えるための一助となれば幸いです。
最後になりましたが、故・張替清氏に対して哀悼の意を表するとともに、貴重な資料をご寄贈いただいたのみならず、さまざまな情報をご提供くださいましたご遺族に対し、厚く御礼申し上げます。
(文責:寺内健太郎)


















