野田にも多くの伝説や昔話があった。
今回は、今は失われた風景として、『太子堂史誌』(注1)に掲載されている内容より、かつて野田にあったトンビ山とその付近の昔話を紹介する。
■トンビ山とは?
上花輪太子堂付近に、かつて「トンビ山」と呼ばれた雑木林があった。場所は成田道を神明神社方向に抜けるまでの細道で、周囲は田畑であったらしい。鬱蒼とした高木が覆い、昼間でも薄暗く、通り抜ける大人でさえも恐怖を感じるような場所であったそうだ。無数のトンビのねぐらとなっており、トンビ山と呼ばれるようになったという。
現在はこのような林はないが、語られている昔話から当時の周辺の様子を探ってみたい。

『太子堂史誌』より引用

明治前期測量2万分1フランス式彩色地図
①妖怪?「ブツッァンベイ」の正体
トンビ山では、「ブブ、ブッツァル、ブツッァンベイ」という怪音がする。その不気味な音に通りかかった人々は大人までも恐怖した。
と、このようなトンビ山の怪音の話が紹介されている。薄暗く恐ろしかったというトンビ山らしく、異音さえ不気味に感じたようだ。軒を連ねていた近所の樽職人までも恐ろしがって、通るのを躊躇した。
なお、正体は今に考えてみると、単なる吹き上げる風と揺れる林の音ではないか、と話者の見解が載っている。
さてここの「ブッツァル、ブッツァンベ」という言葉は、北関東周辺の「ぶっつぁる=背負う」の方言をヒントにすると、おそらく怪異が乗っかるぞ、覆いかぶさるぞ、という脅し言葉からきたものである。
というのも、この怪異は類例があり、例えば福島県の会津地方、檜枝岐村の昔話(注2)に「ぶっつぁりてい」という妖怪が記録されている。内容を要約すると、村内の墓場※を夜に通ると「ぶっつぁりてい!」と不気味な声がする。ある勇敢な男が正体を見てやろうとすると、恐ろしげな白髪の山姥が馬の背に飛び降りてきて覆いかぶさったので、そのまま村に連れ帰り、化け物を捕まえたといって村人たちを呼び、退治してしまった。正体は大ムジナであったというような内容となっている。また「おぶさりてい」等の名でもいくつか採集された話があるが、新潟や青森などの一部では勇敢な男が怪異におぶさられたままでいると、重いと思っていた荷物が気づけば金塊や千両箱になっていて大金持ちになった等、報酬を得る話型となっている。いずれも正体不明の不気味な声が「おぶさるぞ」と呼びかけてくる点が共通しており、人々を驚かせた。野田まで伝搬した頃には物語の顛末は欠けているが、トンビ山はそのようなモノも住み着く暗い林だったのである。
※…便所と記載している例もある
なお、『野田市民俗調査報告書(8)』(注3)の伝承の項目においても、「上花輪のトンビ山ではムジナが出て、化かされると、肥溜めを風呂だと思って浸かってしまう」という話が収録されている。
②「矢五良ドン」の話
昔、矢五良ドン、という身の丈6尺(約180cm)もある力持ちの大男がいた。この家には大蛇が住んでいて、この蛇は6月の田植えが終わったばかりの村の田んぼで暴れるので稲が倒れて迷惑していた。村人は蛇をなんとかするよう矢五良ドンに訴えた。すると矢五良ドンは皆に迷惑をかけては申し訳ないが蛇も可愛いのだといって、江戸川対岸の吉川に引っ越していった。以来、大蛇に田畑を荒らされる被害もなくなったという。
今は神明社に谷向矢五良の力石が残るばかりである。
まずこの大蛇について、蛇が「田を荒らす」という性質の話型において、おおよそ2種に大別できる。一つは「悪意」のあるもので、嫁取りを目的とするもの(荒らすのをやめる代わりに農夫の娘を嫁に差し出すよう要求する。干ばつ時に雨を降らせるなどの見返り型が多い。)、もう一つは荒らす意図はないが、食事あるいは遊んでいるうちに結果として荒らしてしまい農民が迷惑を被る、というもの。これは蛇の例もあるが龍、馬による仕業がほとんどで、いずれも夜間の田畑荒らしを追跡すると、泥の足跡などが「龍の彫り物」「絵馬の馬」につながっており「彫刻の龍の目を釘で打つ」、「絵馬の馬に手綱を描き足す」ことによって解決する、というものである。ちなみに、お隣の柏市には「見事な鴨の欄間」の「鴨」が抜け出して同様に田畑を踏み荒らしてしまう話があるようだ。もしくは、やはり荒らすことに特に目的はないが、それが神の使いであった、蛇神であったというものもある。善の神やその使いが遊んで荒らしているのでは止めるわけにもいかず、村人もお手上げだったのである。
矢五良ドンの大蛇は性質としては、後者に近いものだろう。家の守り神のような大蛇であろうか、力自慢の男ながら、退治ではなく共に退去することを選んでいる。
この「6月頃の田植えが終わったばかりの田んぼ」を荒らす正体はなんだろうか。
古来より蛇の表す象徴は水の流れを主とした災害を例えたものであるが、ここで現実として考えると、正体は「風」である説を推したい。「ブッツァンベイ」でも述べられていたが、とくに太子堂付近は江戸川に近く、夏にかけて川風も強まる。大水や強風になぎ倒された田畑を「蛇に荒らされた」と表現したのではないだろうか。トンビ山周辺の、風の強い下総台地の端にあり、江戸川と遮蔽物のない川べりの水田、そしてそこの風が急にぶつかる背の高い雑木林、というような地理的な様子が見えてくる。
次にこの「矢五良ドン」という人物についてである。この力石は実際には「矢向弥五良」という名で刻まれており、これは実在した人物である。
その前に力石について説明しておくと、力石とは主に江戸時代以降、力自慢が持ち上げて競い合った巨石である。自然石で、大体が丸みをおびた形をしている。現代でいう重量挙げ競技にも似ているが、単に競い合う目的ではなく、巨石を持ち上げた者が神格化されるような神事に使われることもあれば、どの重さの石を持ち上げられるかによって、文字通り力量を図り、雇われる賃金までも変わった。醤油樽の荷積みなどで力自慢の人手を多く必要とした野田は計測用の力石が活躍したようで、現在でも市内には多くの力石が残っており、寺社の境内などで見ることができる。この石は、持ち上げに成功した者が記念に名を刻むこともある。
弥五郎の力石の話に戻るが、伝承の中では「神明社に力石が残るのみ」とあり、これには年月は書かれていないが「川崎在矢向弥五良」(※崎は異体字)と刻まれている。現在でも太子堂神明神社境内で見学することができる。

神明神社の「矢向弥五郎」力石
■石に刻まれた「矢向弥五良」とは
この「矢向弥五良」は、文政5年(1822)生まれ(没年不詳)、川崎領矢向村(現在の横浜市鶴見区あたり)出身の「矢向弥五郎」という大男で、とてつもない力持ちだったそうだ。そのため伝説のように語られており、現在にも各地に名を刻んだ力石が残り、遍歴した足跡をたどることができる。例えば『横浜市史稿 地理編』(昭和7、横浜市)によると、嘉永の頃、120貫(1貫=約3.75kg、つまり約450kg)を抱えあげてみせたという。当時、力自慢たちで賑わっていた野田を訪ねた、あるいは招かれたかは定かではないが、確かに野田に足跡を残していった。しかし一方で、この伝承の中では矢五良ドンについて「名主並みの農民というが、さだかではない」となっており、定住した時期があったようにもとれる文章である。しかし話にもあるように、力石以外に弥五郎、あるいは矢五良ドンが残した奉納物や石碑類はないので、遍歴していた弥五郎が長く滞在したとは考えづらい。また、弥五郎は「矢向」以外にも「川崎弥五郎」、「稲毛弥五郎」などの存在が確認されており、名字ではない。当て字で「矢五良」になったのではないかと推測される。さらには太子堂ある地域のすぐ東隣の字名が「谷向」、更にその隣が「矢向」であり、これらの音が伝聞の中で混ざってしまい、超人的な力の弥五郎の噂話が、大蛇を従えるほとんど架空の人物になってしまった可能性もある。
ただ、話の結末では弥五郎は「対岸の吉川に引っ越したこと」に加え、本人かは不明だが「昭和6年頃、延命寺近くの土手にある古屋敷が大蛇を祀っていたとの噂」となっているのだが、この「弥五郎が吉川に行ってしまった」というのは事実であるようだ。というのも、神明社に残したものとよく似た力石が吉川市に残っている。数点確認されているが、例えばそのうち一点は延命寺からほど近く、吉川駅付近の集会所に集積され安置されている。直ぐ側には中川が通っている。これらの事を考えると、やはりベースには史実が含まれているように思う。「矢五良ドン」の蛇は吉川でも暴れたのだろうか。

吉川にある「矢向弥五郎」力石(右は刻名を画像処理にて鮮明にしたもの)
その土地に残る昔話は、荒唐無稽なようでも、失われた風景を伝えてくれる媒体でもある。トンビ山のこれらの話を執筆したのは野田の樽職人・玉ノ井芳雄氏であるが、自らを語りべとし、文中では「市史には程遠い、昔話しか書けない私」と述べているが、文章にも画像にも残っていない風景は、昔話の中にしか知るすべはない。その僅かな伝承のおかげで、今日に伝わらない郷土の姿を探したり、あるいは科学の発達で不可思議の正体を突き止めることができるようになった。
かつて怪しげなものの飛び交ったトンビ山は、現在はわずかに残る数本の高木を残し、大きな幹線道路沿いで随分開けた場所である。しかし150年ほど前には、大きな力石を持ち上げる神力のような矢向弥五郎は歓声を浴び、ぶっつぁんべいも丸太のように太く暴れる大蛇も、確かに野田・太子堂付近に暮らしていたのだ。

現在の神明神社付近。僅かな樹木だが、真夏の太陽を遮り薄暗さを感じる。(令和7年8月撮影)
【注釈】
(1)『太子堂史誌』平成9年 太子堂史誌編纂委員会
(2)『檜枝岐昔話集』昭和35年 山村民俗の会
(3)『野田市民俗調査報告書(8)上花輪・野田・中野台・清水の民俗』平成25年 野田市史編さん委員会
【参考】
『茨城方言集覧』昭和50年 茨城教育協会
【協力】
力石・郷土史研究家:雨宮清子 様
吉川市の「矢向弥五郎」力石について、ご助言を賜りました。厚く御礼申し上げます。
(文責:奥村麻由美)