
はじめに
狩衣(かりぎぬ)などの装束は、現在直接見る機会は少ないものの、博物館で実物もしくは絵巻物に描かれた姿を見たことがあるのではないでしょうか。
狩衣は、貴族の装束として多くの方が漠然と認識しているかと思います。今年放送されている大河ドラマでも平安貴族を主軸としている関係上狩衣は多く登場しています。
狩衣は、時代やその者の立場によって様々な用途で用いられました。近代以降は、礼服などの洋装化に伴い、着用機会が激減しましたが、今に至るまで祭祀用の装束として存続しています。近代の野田市でも神事などにおける着用姿が古写真などから確認できます。
本コラムではこの狩衣に視点を当て、概要や変遷を簡単に説明するとともに、近代における野田市内での着用事例として古写真の残る上花輪香取神社正遷宮大祭における事例を紹介します。
1狩衣とは
華やかな色彩の狩衣姿は、貴族の日常服であり、多くの方が想像する平安貴族の姿かと思います。しかし当初は庶民の衣服として用いられており、『装束集成』七之巻には「古ハ庶人ノ服タリシガ、後世六位以上ノ褻ノ服トナレリ」とあります。ここにある六位とは官人の序列を表わす位階のひとつです。位階は正一位(しょういちい)から少初位下(しょうそいげ)までの30階存在しましたが、平安中期以降七位以下については授与されなくなりました。一般には五位以上が貴族とされ、位階を持っていない者は無位といいました。また、「褻ノ服」とは日常の服のことを指します。
狩衣は着用するのが簡単で、動きやすいことから貴族が使用しはじめます。すると高級な絹織物での仕立てとなるなど華美な装束となりました。当初は布衣とも呼ばれていましたが、貴族らが狩りの際にも着用したことから狩衣と呼ばれ、名称が定着します。狩衣は普段着として着用していたため、礼装のため位階によって色彩が定められていた衣冠や束帯と異なり、基本的には各々好みの色彩を用い、文様なども自由でした。
なお、貴族に仕えた青侍と呼ばれる者などは無紋の狩衣を着用しており、後にはこれを布衣(ほい)と呼ぶようになりました。ただし、その後も広義の意味で狩衣を布衣と称する場合もあります。
狩衣装束の構成は基本的に烏帽子(えぼし)をかぶり小袖に単(ひとえ)と袴を付け、狩衣を着装しました。狩衣の袖は後見頃に五寸ほど縫い付けているのみであるため活動的であり、前から見ると単が見えます。袖には袖くくりの紐が付されており、活動の妨げにならないように絞ることもできました。
2武家と狩衣
貴族の日常服として用いられた狩衣は、後に武家社会でも場面に応じて着用されるようになります。
武士はもともと貴族の警護などに従事していました。しかし平安時代の終わり頃からは武士が力をつけはじめます。武士たちは、従来の貴族すなわち公家社会から離れ徐々に独自の制度を整えていきました。このような中で、源頼朝が開いた最初の武家政権・鎌倉幕府では上位の武士が行列や儀式において狩衣を着用しています。武士として力を誇示する場合には活動的で武家の代表的な装束である直垂(ひたたれ)を着用する一方、公家との交流や儀礼を重視した場面では狩衣を用いており、礼装のような扱いとなりました。なお、有紋である狩衣は五位である諸大夫以上の武士に限られました。
慶長8年(1603)、徳川家康が朝廷より征夷大将軍に任ぜられて開いた江戸幕府では、狩衣を正月や祝日に四位(しい)の者が着用する装束として定めました。大名は五位を与えられ、家格などにより一部の者は四位以上となりました。狩衣は譜代の者や所謂10万石級以上の大名などが着用しており、幕府内でも上位の者が着用する礼装へ変化したと言えるでしょう。紋のない狩衣である布衣は、お目見え以上の武士のうち許された者が着用しました。
江戸幕府の定めた狩衣姿は、公家と異なり風折烏帽子(かざおりえぼし)を着用するなど差異がありました。
現在の野田市関宿には関宿城があり、江戸幕府の中枢で活躍するような人物が城主となりました。小笠原氏、牧野氏、板倉氏、久世氏などが配されましたが、久世氏の治世が長く、幕政にも深く関わりました。歴代城主の中には四位を与えられた者もおり、これらの者は狩衣を着用できる存在であったと言えます。例えば幕末に老中として活躍した久世広周は、嘉永元年に従四位下を与えられています。ただし、同2年には侍従(じじゅう)となっており、この場合は狩衣ではなく武家の代表的な装束である直垂を着用しました。
3神社・祭祀と狩衣
神社の神職(神主)は、神事で狩衣を着用します。このため神社の祭礼は、現在でも狩衣姿を見る数少ない機会といえるでしょう。神職の場合は立烏帽子(たてえぼし)に狩衣、手には笏(しゃく)を持ちます。狩衣は現在神職の常装として定められ、大祭・中祭に比べ小規模な小祭などで着用するとされています。ただし実際には大きい神事でも狩衣を使用する、さらに神職以外であっても神事で雅楽を奏する伶人などといった一部の祭祀奉仕者が着用する場合もあるなど幅広い場面で着用されています。狩衣の色や紋などといった細かい指定については神社によって異なり、紋を統一する、色を統一する、指定なしなど様々です。また、同じ常装としては、狩衣と同じ形式で白一色、所謂白狩衣である浄衣(じょうえ)も記載されています。祭祀に関する装束は、従来の伝統を受け継ぎ今に伝えていますが、その制度は少しずつ変化しています。
江戸時代以前の神社では、基本的に公家の制が適用され、位階に応じた装束が用いられています。人数の多い無位神職は、黄色の狩衣や浄衣などを用いていたようです。
江戸時代には幕府より「諸社禰宜神主法度」が定められ、無位神職は白張と呼ばれる狩衣形式でより簡易的な装束を着用するとされました。ただし、神道家であった吉田家に認められ「吉田許状」を授与された場合は白張以外の装束を着用できたため、この許状を受けて狩衣を着用した神職も多く存在しました。
明治時代となると洋装の大礼服などが制定され、当初は明治5年太政官布告第339号に衣冠を祭服とするほか直垂狩衣などは廃止されました。西洋文化が重視されたことから、従来の装束は衣冠を祭祀の装束と限定して残すほかは禁止され、着用の機会を失います。しかし翌年にはこの祭祀用装束として狩衣などを用いても差し支えないとされました。その後明治27年には神職服制が定められ、衣冠は大礼の際に着用する正服、狩衣は小礼の際に着用する略服とされました。ただし皇族の場合は狩衣の有欄、すなわち小直衣とされ、無位の神職は無紋の布衣などに限定されています。小直衣(このうし)とは、有欄狩衣とも称され、狩衣に欄を付した装束です。
大正元年の神官神職服制改正では、位階ではなく官吏の等級である勅任官・奏任官・判任官に分けて服制が定められました。小祭などで着用する常装としては、勅・奏・判任官により裏地の有無など差はありながらも狩衣を着用しました。また、狩衣と同様の形式である浄衣も常装のひとつとして明記されています。明治27年の服制にあった無紋の布衣については本改正では記載されていません。なお、この服制は勅・奏・判任官に分けていますが、同待遇の者にも適用されています。例えば村社の神職は、判任官でなくても判任官待遇と位置付けられ、判任官の装束を着用しました。戦後に現在の制度へと移行しますが、神職の常装として狩衣が着用されているのは既に述べた通りです。なお、狩衣の単は省略しても良いとされており、筆者自身も祭礼で狩衣を着用した時にはほとんど用いませんでした。現在多くの神社では、大規模な神事や特別な場合を除き省略しています。このため間からは白衣が見える状態となります。
布衣着用に関しては、前述の通り大正元年の神官神職服制改正に記載がありません。ただし、神職以外の祭祀関係者については布衣着用の記載があります。大正2年に定められた官国幣社以下神社幣帛供進使(へいはくきょうしんし)随員(ずいいん)服制の中では、随員の装束について衣冠の代用として布衣着用が認められています。戦前までの神社は社格によって幣帛供進使が幣帛を奉献しており、官吏が幣帛供進使として参向しました。例えば村社の場合は村長またはその代理が供進使となり、随員を伴って参向しています。この随員が着用する衣冠代用としての布衣は、立烏帽子の上部が折れた風折烏帽子で袴は白、笏を持つと定められていますが、笏は末広、履は草履に代えることができました。
ほかの着用事例として、即位礼、即位後初めて行う新嘗祭である大嘗祭など皇室祭祀においては、一部の者が布衣を着用しています。これら皇室祭祀に関する規定は、通常の神社と異なり登極令(とうぎょくれい)で定められていました。皇室祭祀は宮内省の式部職が行っています。布衣は現在の神社祭祀でもあまり用いられないですが、一部の神職が奉仕する際に着用することもあるほか、神事において音楽を奏する伶人などの祭祀奉仕者、関係者も着用する場合があります。
近代における野田市内でも上述の服制に従って祭祀で用いられています。記念写真などでは神事や参列者集合写真などの古写真が残されており、狩衣を着用した神職の姿を散見します。例えば野田尋常高等小学校の増築校舎記念写真帖には、地鎮祭や棟上げ式の様子が残されており、地鎮祭で狩衣を着用した神職が確認できます。
大規模な祭儀では写真帳が製作され、関係者に配布される場合もあります。このような写真帳は当時の祭儀姿が残り、写る人々の概要も知ることができる場合も多いため資料として重要な存在です。例えば昭和八年に執り行われた野田上花輪の香取神社遷宮大祭の記録を収めた「香取神社正遷宮大祭記念写真帳」は、遷座祭や氏子の様子、式次第などが記されています。ここにも狩衣を着用した者の姿や布衣を着用した氏子総代の姿を確認できます。
4香取神社正遷宮大祭
上花輪の旧村社である香取神社は、天文年中に教学坊と称する者が上花輪後に安置したことが始まりとされています。その後は慶安3年に教学坊三世の孫門倉祐徳が氏神とし、貞享2年に祠を建立、上花輪の総鎮守となり、さらに享保12年、野田郷の総鎮守となりました。大正15年におきた上花輪の大火で社殿を焼失してしまいましたが、昭和8年に再築され盛大な遷座祭、奉祝祭が行われました。遷座とは、神体を他の場所に移すことで、この遷座祭は新殿に移す祭儀となります。この後に行われた奉祝祭では氏子の供奉する神輿が区内を一巡しました。
前述したようにこの様子は「香取神社正遷宮大祭記念写真帳」に残されています。遷座祭では静粛な供奉行列と記され、神職は衣冠や狩衣着用、関係者もそれぞれに応じた服装で静粛に行われた一方、その後の奉祝祭では多くの奉迎者の中を進む堂々とした行列姿を窺えます。奉祝祭での氏子の姿は遷座祭で着用した服装のほか、甲冑や陣羽織など武者を再現した時代装束を着用し、青年団や少年など各年齢や所属で装束を振り分けています。
遷座祭は前述の通り服制に準じて神職など奉仕者が衣冠や狩衣、浄衣を着用しています。また、この中には氏子総代の写真もあり、皆布衣を着用しています。集合写真に写る氏子総代の布衣姿は、幣帛供進使及随員服制に記載された衣冠代用と同じ服装です。この服制については、遷座祭の前行や供奉も準用するとされていたため、香取神社正遷宮大祭に参列した氏子総代は布衣着用者と同じ立場であるとして着用したと思われます。
その後の奉祝祭でも狩衣着用者を確認できます。この行列の順序が記載された箇所には「召立長(狩衣騎馬)髙梨柳次郎」とあり、高梨柳次郎が狩衣を着用したと明記されています。髙梨柳次郎は神職ではありませんでしたが、地域の有力者であり、この行列を指揮する召立長として騎乗していることなどからこれらを示すため狩衣を着用したと思われます。また、副召立長も同様に狩衣騎馬と記載されています。個人の装束が明記されたのはこの2名のみであり、他は役として「武者陣羽織隊」などと記載されるほか、威儀物の奉持者として「御太刀」など持ち物が記載されています。布衣姿で行列に加わる氏子総代についても「氏子総代」と記載されているのみです。ただし、召立長の写る写真を確認すると、紋が無い布衣のように見えます。画質の関係から紋が写らなかった可能性もありますが、布衣と狩衣を分けずに表記したのかもしれません。とはいえ氏子総代の着用した布衣と召立長・副召立長の着用した装束は色彩が異なるため、氏子総代とは別の装束が用意されていたようです。
また、建築関係で棟梁など代表者は装束を着用しており、このうち1名が紋の有無は不明ながらも狩衣形式の装束を着用しています。建築関係者は、建築に関する神事において祭祀奉仕者として装束を着用することもあり、中でも棟梁は自身が手掛けた建築の上棟式などにおいて自ら神事を行う場合もありました。ここでは遷座祭後に行われた奉祝の行列ということから、祭祀の関係者として、そして建築関係者代表として狩衣などの装束を着用しているものと思われます。

奉祝祭の行列と召立長(「香取神社正遷宮大祭記念写真帳」所收 当館蔵)
狩衣騎馬と記載された召立長の姿。狩衣と記載あるが紋の有無は判別困難である。別頁にはこの行列に続く布衣の氏子総代も確認できるが、召立長の装束と色彩は異なるため同じ布衣ではないようである。
神輿を担ぐ姿も記録されていますが、担ぎ手は狩衣形式の白張を着用しています。白張は主に傘持ち、旗持ちなどの従者が着用しており、これらの従者を白丁とも呼びました。装束としての白張は白色の狩衣形式ではありますが白狩衣の浄衣と異なり簡易的な造りとなっています。江戸時代には無位で吉田許状を持たない神職の装束となったことは前述したとおりです。現在でも神社の神幸祭で行列をみると、担ぎ手のほか旗持ちなどが着用しており、祭礼に奉仕する一般の人々などが着用します。担ぎ手などの白張着用者は地域から選ばれた祭礼従事者として名誉とされる地域もあったようです。
神輿を担ぐ担ぎ手は、この白張を着用する場合と法被姿の場合があります。白張着用の場合は一般的に儀式を重視して静かに担がれます。この奉祝祭では白張を着用していること、また遷座祭の奉祝という点などから儀礼としての面を意識して担いでいるといえるでしょう。狩衣とは違いますが、この形式の装束が奉祝祭の場にふさわしいと認識されていたことが窺えます。
狩衣や布衣は、装束の中では活動的ながらも威儀ある装束と認識されていたといえます。氏子総代の布衣姿は、例え衣冠代用であったとしても装束着用自体が威儀ある立場を一目で認識でき、着脱も容易であったことや数を揃える必要からも十分にその役割を果たしていたといえるでしょう。
おわりに
狩衣は動きやすい装束のため貴族の日常着として用いられましたが、後には礼装としても用いられました。狩衣を含め装束はこのように時代が下るにつれて日常着が礼服化されています。現在の礼装は紋付の和服(紋付羽織袴)とされていますが、この際に着る長着は元々狩衣や衣冠など装束の下に着用した小袖が発展したものです。公の場での狩衣着用は明治時代に大礼服が定められて以降廃止されましたが、祭祀用の装束としては存続して現在も着用されています。
狩衣着用については公家、武家、そして神社などによって定めが異なり、各々の制に従って着用されました。着用者の階級や着用場面が各々の制で異なり、同じ狩衣姿であっても、例えば神社では笏を持つなど視覚的にも差がありました。ここでは概略という都合上あまり触れませんでしたが、地質や仕立てについても時代の流れや各々の制により差異があります。
このように狩衣などの装束は時代に合わせて変化しながらも一定の着用基準は存在しており、これらの伝統に準拠しつつ今に至るといえるでしょう。
野田においても狩衣は神職が着用したほか、香取神社正遷宮大祭では一部代表者や同待遇者であることを示す装束として着用されました。地域の有力者として騎乗していた召立長が狩衣と明記されているほか、建築関係の代表者も着用しています。氏子総代は幣帛共進使及随員服制に準拠した紋無の狩衣である布衣姿を衣冠代用として着用し、威儀を正しています。この点から、狩衣形式の装束は活動的ながらも威儀ある装束として地域の人々も認識していたといえるでしょう。この時氏子総代の着用した中啓を持つ布衣姿は、現在は時代の流れに伴いあまり見られなくなった姿で、当時の華やかさが窺えます。
今回の学芸員コラムが日本文化に興味を持つきっかけとなりましたら、また野田の地域史に興味をもつきっかけとなりましたら幸いです。
《主な参考文献など》
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鈴木敬三『有職故実図典』吉川弘文館、1995年
二木謙一『武家儀礼格式の研究』吉川弘文館、2003年
山岸裕美子『中世武家服飾変遷史』吉川弘文館、2018年
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野田市史編さん委員会編『野田市史 資料編 近世Ⅰ』野田市、2014年
野田市史編さん委員会編『野田市史編さん委員会調査資料・第三集 野田市宗教施設総覧』野田市役所、1969年
今泉定介編『装束集成』巻六、七 吉川半七、1900年
尾張徳川黎明会編『徳川礼典録』上 尾張徳川黎明会、1942年
市岡正一『徳川盛世録』平凡社東洋文庫、1989年
(文責:後藤智輝)