〈目次〉
はじめに
1.板碑とは
(1)板碑の形式
(2)板碑の構成
(3)武蔵型板碑の変遷
2.当館所蔵の板碑
(1)弥陀一尊種子板碑
(2)弥陀三尊種子板碑
(3)釈迦一尊種子板碑
(4)題目板碑
(5)十三仏種子板碑
(6)二十一仏種子板碑
おわりに
はじめに
板碑とは、鎌倉時代から戦国時代にかけて造られた、板状の石に文字などを刻んだ供養塔です。死者の冥福を祈る追善供養や、自身が生前のうちに死後の冥福を祈る逆修(ぎゃくしゅ)供養のために立てられました。板碑は中世をとおして全国的に造立されますが、特に関東地方に多く分布しており、その数は5万基を超えます。野田でも多くの板碑が発見されており、中世の野田を考えるうえで重要な資料となっています。本コラムでは、当館所蔵の板碑に焦点を当て、その歴史を振り返りながらいくつかの事例を紹介したいと思います。
1.板碑とは
(1)板碑の形式
板碑はその形状や色合いから、「板石塔婆」や「青石塔婆」とも呼ばれています。関東地方の板碑は、埼玉県秩父地方で産出される緑泥片岩(りょくでいへんがん)という石材を使用したものが多くなっています。この石材は、緑がかった色合いと板状に加工がしやすいという特徴があります。野田の板碑も主に緑泥片岩で造られたものとなり、関東地方で出土した板碑の大半は、この緑泥片岩を使用した「武蔵型板碑」に分類されます。一方で、千葉県から茨城県に分布する黒雲母片岩を用いた「下総型板碑」があるように、板碑は地域によって使用される石材や形状が異なるものもあります。全国的には緑色片岩を使用した徳島県の「阿波型板碑」など、それぞれに地域ごとの特色がみられます。
板碑が発見された地からは、中世の村落の存在がうかがえます。そしてその碑面に刻まれた内容からは、当地の人々がどのような信仰を持っていたのかを知ることができます。板碑は、その地域の中世を生きた人々の痕跡を今に伝える資料なのです。
(2)板碑の構成
板碑に刻まれた文字や模様には、それぞれ意味があります。その構成は宗派や時代によって変化がありますが、基本的には図1のとおりです。供養塔である板碑には、供養された人の名前、板碑が立てられた年、祈りのための仏教語などが刻まれています。形状としては、頭頂部を山形に成形し、上部に横二本線(二条線)を刻むものを基本形としますが、時代や地域によってさまざまな特徴があります。
ここでは、板碑の主要な構成要素を簡単に説明します。
・「種子」(しゅじ):種子とは、仏を一字で表した梵字(ぼんじ)のことです。梵字とは古代インドのサンスクリット語を表した文字であり、この梵字一字で特定の仏を表します。板碑は供養のための仏を碑面に刻みますが、多くはこの種子によって表されています。なお、種子は同じ一字で複数の仏を表すものや、同じ仏が複数の種子を持っていることもあります。板碑に刻まれる種子にはさまざまな種類がありますが、ここでは主な種子として図2に阿弥陀三尊と釈迦三尊を挙げておきます。
阿弥陀三尊とは、極楽浄土に導く仏として知られる阿弥陀如来と、その脇侍である観音菩薩、勢至菩薩のことです。主尊である阿弥陀如来は「キリーク」の梵字で表し、その右下に観音菩薩の種子「サ」、左下に勢至菩薩の種子「サク」が刻まれます。
釈迦三尊とは、仏教の開祖である釈迦如来とその脇侍である普賢菩薩、文殊菩薩のことです。釈迦如来の種子は「バク」となり、その右下に普賢菩薩の種子「アン」、左下に文殊菩薩の種子「マン」が刻まれます。
・「天蓋」(てんがい)、「蓮座」(れんざ)、「花瓶」(けびょう):本尊の装飾です。天蓋は仏の頭上にかざす覆い、蓮座は仏の台座、花瓶は仏前に花を供えるための花器を指します。
・「偈」(げ):詩句の形式をとり、経典などから仏徳を称えたり、教理を述べた部分を抜き出したもののことで、多くは四句からなります。図1には、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」と記載されています。これは『観無量寿経』の一節で、阿弥陀如来の光明が遍く世界を照らすことを表す「光明遍照偈」(こうみょうへんじょうげ)です。板碑に刻まれる偈としては、最も多く用いられています。
・「紀年名(銘)」:供養を行った日付や故人の没年日などを指しています。なお、板碑が立てられた理由を表す「造立趣旨」が刻まれている場合は日付の詳細がわかりますが、それが無い板碑も多く、その場合は刻まれた日付が一体何の日を指すのかは不明です。なかには、追善供養として、故人の回忌や彼岸に合わせて造立されたものも見られます。
・「供養者」(人名):追善や逆修の供養された側の人や、板碑を立てた造立者などの名前を指します。紀年銘と同様に、造立趣旨が刻まれている場合は人名の詳細がわかりますが、多くは不明です。刻まれる人数は1名とは限らず、夫婦と思われる男女の法名や、結衆(けちしゅ)と呼ばれる集団の構成員など多様です。
(3)武蔵型板碑の変遷
現状最古の板碑として、埼玉県熊谷市出土の嘉禄3年(1227)銘板碑が知られているように、まず現在の埼玉県域で大きく展開され、鎌倉時代を通して周辺地域に拡大していき、南北朝時代に造立のピークを迎えます。その後は一時的に減少するものの戦国時代を迎える15世紀中頃になると再び増加しますが、16世紀半ば以降は衰退の一途をたどり、江戸時代に入るとほぼ姿を消します。こうした造立数の変遷は、板碑の持つ性格上、戦乱との関係が挙げられます。特に造立のピークを迎える南北朝時代は内乱が続いた時代であり、多くの死者の供養や、不安定な社会状況に対する救済を求めたことが背景にあったと考えられます。
また、板碑の造立を担う人々も時代によって変化します。初期の造立は武士などの在地領主層によるものが中心でしたが、15世紀になると民衆にも広く普及し、地域の中で結衆(けちしゅ)と呼ばれる集団を組織して、後述する月待や庚申待などの民間信仰による造立が行われるようになります。
2.当館所蔵の板碑
当館では、板碑片を含めて102基の板碑が資料として登録されています。板碑は時代や信仰によって刻まれる内容が異なるため、本コラムではその中から、その多様な姿がうかがえる7点を紹介します。
(1)弥陀一尊種子板碑
当館で最も多くの数を占めるのが、「弥陀一尊種子板碑」です。種子は「キリーク」(阿弥陀如来)のみを刻んでいます。種子と紀年銘、法名を刻む一般的な構成をしていますが、彫りの部分を見ると、金色に彩色されていることがわかります。
これは特に種子の部分で顕著にみられますが、板碑はもともと金泥(または金箔)や朱色で彩色されていたのです。ほかに当館所蔵のものでも数基が確認できますが、こうした彩色は同時期に造立される石塔である宝篋印塔(ほうきょういんとう)や五輪塔などにも見られる普遍的なものでした。金色に彩色が施された理由としては、仏の身体的特徴のひとつである「金色相」(こんじきそう)を表したものと言われています。
(2)弥陀三尊種子板碑
中央の主尊に「キリーク」(阿弥陀如来)、その下の脇侍に「サ」(観音菩薩)、「サク」(勢至菩薩)を刻む、阿弥陀三尊種子の板碑です。関東では「キリーク」(阿弥陀如来)を主尊とする板碑が多く、先の(1)でご紹介した「弥陀一尊種子板碑」を含め、当館所蔵の板碑でも大半を占めています。
また、上部が欠けたこの板碑(資料番号2719)のように、弥陀三尊種子のほかに梵字で光明真言を刻んでいるものもあります。真言とは仏や菩薩の真実を伝える言葉で、陀羅尼(だらに)や呪(じゅ)とも呼ばれています。板碑にはこうした真言を刻むものも多く見られ、特に光明真言がその中心となっています。光明真言は、『不空羂索(ふくうけんさく)毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)大灌頂(だいかんじょう)光明真言経』を出典とする呪文で、図2の23字からなります。
これを唱えると一切の罪業が消滅し、この真言を唱えながら仏の加護を込めた砂を遺体にかけると、仏の光明を得て極楽往生できることから、故人の冥福を祈る追善供養によく用いられました。
この板碑は、法名が刻まれていると思われる中心部が磨滅して判読不能ですが、この法名の人物の追善供養を目的として造立されたと考えられます。
(3)釈迦一尊種子板碑
これは「バク」(釈迦如来)の種子を持つ板碑です。この板碑は「バク」(釈迦如来)のみを刻んでいますが、脇侍の「アン」(普賢菩薩)、「マン」(文殊菩薩)を含めた三尊を刻むものも一般に多く見られます。当館所蔵で種子が確認できるものの中では、釈迦如来の種子を持つ板碑はこの1基のみで、釈迦如来を主尊とする板碑は野田市内でもこれを含む5基のみとなります。なお、紀年銘は「延元年十月」とありますが、これは延元元年(1336)10月を指します。
(4)題目板碑
これまで見てきた板碑は、阿弥陀如来や釈迦如来などの本尊を種子で表していましたが、これは「南無妙法蓮華経」(題目)が本尊として刻まれています。この題目があることから、この板碑が日蓮宗の信徒による造立であることがわかります。なお、ほかに似た形態を持つものとして、本尊に「南無阿弥陀仏」という名号(みょうごう)を刻む「名号板碑」と呼ばれるものも存在します。名号板碑や、これまで見た阿弥陀種子や釈迦種子は、その本尊から時宗や浄土教系による造立と考えられますが、中世の宗教の多様性を考慮すると、具体的にどの宗派によるものなのかは不明です。
一方で、題目板碑は一見して日蓮宗による造立であることがわかります。題目板碑が発見された場所では、日蓮宗による活動が行われていたことが推察されますが、残念ながらこの板碑は出土地が不明となっています。野田における題目板碑はこの1基のみとなり、出土地や状況が不明であることからも、他地域から流入した可能性も考えられます。なお、板碑は造立当初の位置(原位置)のまま現代まで伝えられたものもありますが、実はその数は多くありません。多くは、近世以降に寺や墓地に移されたか、廃棄され埋められた場合などがあるため、出土地=原位置であるとは言い切れないのです。
(5)十三仏種子板碑
上下が欠けてしまっていますが、6つの種子が月輪と蓮座とともに刻まれています。判読できる5つの種子から、これは13の仏尊(十三仏)が刻まれているものだとわかります。十三仏は初七日から三十三回忌に至る13回の追善供養の本尊です。十三仏信仰は、中国の道教と仏教が結びついて成立した十王信仰を源流とします。十王とは、冥府で死者の生前の罪を裁く審判のことで、表1にある王の裁断を順に受けて来世の生所が決まるとされています。十王にはそれぞれ本来の姿とされる仏や菩薩(本地仏※)があてられ(表1参照)、南北朝以降になると、七回忌に蓮上王・阿閦如来(あしゅくにょらい)、十三回忌に抜苦王・大日如来、三十三回忌に慈恩王・虚空蔵菩薩が加えられて十三仏として定着しました。
この板碑の銘文右側を見ると、「月」という文字が刻まれており、これは月待供養を指すと考えられます。月待は、毎月特定の日に近隣の人々が集まり、会食などをしながら月の出を待つ行事です。15世紀になると、十三仏は月待信仰と結びつくことから、十三仏は月待供養を目的とした板碑の本尊として、その種子が刻まれるものが多くあります。中心部に「結縁」(けちえん)と銘文があることから、こうした民間信仰に伴って、民衆が仏法と縁を結び、死後の極楽往生や五穀豊穣、延命長寿などの現世利益を願って造立したものと考えられます。
なお、紀年銘に「十月廿」とあり、下部が欠損しているため詳細な日付は不明となっています。しかし、月待は二十三夜待が重視されていたことから、月待供養を目的とした板碑は23日を造立日とすることも多いため、欠損部分の日付は「廿三日」であった可能性が示唆されます。なお、この板碑は野田ではなく茨城県八千代町で出土したものとなりますが、当館所蔵のうち、15世紀の民間信仰による数少ない事例として取り上げました。15世紀以降、こうした民間信仰によって造立される板碑が増え、それ以前の限られた階層から地域社会へと担い手層が広がるとともに、その多様な信仰のあり方が読み取れます。
※本地垂迹説による、神の本来の姿とされる仏や菩薩のこと。仏や菩薩が人々を救うために、仮の姿である神となって現れると考えられていました。
(6)二十一仏種子板碑
当館所蔵のうち、1mを超える最も大型の板碑です。二十一仏とは、近江国(現滋賀県)の日吉大社を中心とする山王信仰に基づくもので、表2にある上七社、中七社、下七社からなる山王二十一社の本地仏のことを指します。
この板碑をよく見てみると、天蓋の左右に「申待供養」と刻まれています。加えて、下部に13名の人名(交名・きょうみょう)が見られることから、これは庚申講の講中によって立てられたことがわかります。「申待」とは庚申待のことを指し、庚申待とは60日に一度の庚申の日の夜に近隣の人々が集まって、不眠で飲食や寄合を行う行事です。二十一仏種子板碑には、こうした「申待」や「庚申待」の銘文が刻まれることが多く、山王の神使である猿(山王信仰)と十干十二支の「庚申(かのえさる)」(庚申信仰)が結びついたものと言われています。この板碑も十三仏種子板碑と同様に、地域の人々の民間信仰によって造立されたものであることがわかります。
ちなみに、この板碑が発見された東金野井地区では、36基もの板碑が確認されています。東金野井は中世城郭跡が残る地区で、2度の発掘調査によって、東西約290m、南北約100m、3つの郭を持つ規模の城郭が存在したことがわかっています。なお、城館は室町期のものと考えられていますが、伝承では鎌倉前期に野本将監家定が居領したとされています。
このように、発掘調査の成果に加え、多くの板碑が確認されていることからも、東金野井地区において中世の人々の活動が活発に行われていたことがうかがえます。そして、この二十一仏種子板碑からも中世末期の東金野井地区の人々の信仰やその構成を垣間見ることができます。こうした地域でまとまった板碑を具に見ていくことで、その地域における中世の様相を知ることができるでしょう。
おわりに
板碑は江戸時代になると姿を消しますが、その要因については、徳川家康の関東入部による政治的影響、近世墓標や位牌の出現などさまざまな説があります。いずれにしても、宝篋印塔や五輪塔など日本では他にも多くの石塔が造られるなかで、板碑は中世にのみ造られた石造物としてその特徴があるのは確かでしょう。また、野田に限らずどの地域でも同様ですが、中世は近世以降に比べて古文書などの文献資料が乏しい時代です。そのような状況の中でも、板碑は地域の人々の信仰や生きた証を物語る、中世の重要な地域資料と言えるでしょう。
本コラムでは当館所蔵の板碑をご紹介しましたが、中世の野田の様相を考えるには、当館所蔵のみならず、市内に残る板碑や地域ごとの分析なども含め、多様な観点から検討していく必要があります。今後も調査を続け、その様相を探っていきたいと考えています。
当館の2階常設展でも、元応三年銘の弥陀三尊種子板碑1基を展示しています。ぜひ博物館で実物をご覧いただき、中世の野田に思いを巡らせていただけますと幸いです。
参考文献
川戸彰「野田市の板碑」(『野田市史研究』18号、野田市、2007年)
野田市郷土博物館編『野田市文化財報告第七冊 野田の板碑』野田市郷土博物館、1987年
野田市郷土博物館編『野田シリーズⅥ 野田の板碑』野田市郷土博物館、1974年
小沢国平『板碑入門』国書刊行会、1978年
播磨定男『中世の板碑文化』東京美術、1989年
千々和到『日本史リブレット31 板碑と石塔の祈り』山川出版社、2007年
千々和到『板碑とその時代 てぢかな文化財・みぢかな中世』平凡社、1988年
太田まり子「板碑の紀年銘」(『季刊考古学』147号、雄山閣、2019年)
千野原靖方『東葛の中世城郭』崙書房出版、2004年
財団法人千葉県史料研究財団編『千葉県の歴史 資料編 中世1 考古資料』千葉県、1998年
庚申懇話会編『日本石仏事典』雄山閣、1975年
(文責:稲垣沙希)












