紙上開催!「野田の桃源郷を歩こう」~桃源郷・岩名の魅力とは?~

はじめに

当館では、昨年、「野田の桃源郷~漢詩文にみる岩名桃林と座生沼~」と題し、明治時代に野田へ桃の花を観に訪れた文人たちの漢詩文を紹介する特別展を開催しました。

江戸時代後期~大正時代にかけて、野田の岩名を中心とする地域では桃の栽培が盛んに行われていました。そのため、漢詩人として知られた大沼枕山(ちんざん)や、幕末期に志士として活躍し明治時代に政治家となった土方久元(号・秦山/しんざん)、渋沢栄一(号・青淵/せいえん)といった面々が、春になると桃の花を観るために岩名を訪れています。そして、彼らがつくった漢詩文の中で、岩名は“桃源郷”に例えられていたのです。

岩名の桃が東京の市場へと出荷されていたことは、千葉県の地理について記された本にも掲載されており、当時はよく知られていたようです。大正~昭和初期にかけて生産量が減っていきほとんど行われなくなりましたが、岩名の桃の由来を知った市内在住の加藤威さんが平成13年(2001)より桃の栽培に取り組んでおり、当時とは品種が異なるものの、春にはきれいな桃の花が咲いています。そこで、去る3月28日(土)に、桃の花が咲く時期にあわせて桃花観賞ゆかりの地をめぐるイベントとして「野田の桃源郷を歩こう」を企画したのですが、新型コロナウイルス感染症の拡大を受けて中止となってしまいました。

そこで、今回の学芸員コラムでは、「野田の桃源郷を歩こう」のコースを紹介しながら、当日歩きながら体感していただきたかった岩名の景勝地としての魅力について取り上げていきたいと思います。

なお、特別展の内容や、コラムに登場する資料については、特別展図録『野田の桃源郷~漢詩文にみる岩名桃林と座生沼~』に詳しく紹介していますので、そちらをご覧ください。図録は市内の図書館でも読むことができます。

 

1.桃花観賞の地・岩名

岩名の桃については、大町桂月(けいげつ)『東京遊行記』(明治39年刊行)の中で、「野田八村の桃花」として項目が立てられています。野田地域を紹介する項のタイトルに「桃花」が登場していることからも、当時、野田で桃が盛んに栽培されていたことが窺えます。訪れるべき野田の名所として、愛宕神社や聚楽園(現・清水公園)に続いて紹介された、岩名の桃に関する箇所を見てみましょう。

(前略)

桃の八村とは、清水、堤台、中野台、吉春、谷津、五木、岩名、築比地、是也。築比地は、少し離れて利根川の右岸に在り。他の七村、沼をめぐる崖下に、渡舟を招きて、岩名村にわたる。中流微雨の中に観望す、幽にして静なる哉。八村の中、岩名は、土地高燥、江戸川と座王沼とにはさまれて、茅屋ぼつぼつあるのみにて、幾んど行人なき塵外の別天地、のばさば一方里もあるべき処、見る限り、行く限り、すべて桃花に埋めらる。実に天下の壮観也。越ヶ谷や、中山や、市川や、こゝを見れば、何でも無し。断言す、野田の桃を見ずんば、未だ桃花の観を談ずべからざる也。

(後略)

 

前半で「清水、堤台、中野台、吉春、谷津、五木、岩名」と、岩名以外の広い地域で桃が栽培されていたことが記されています。最後の部分で、「断言す」と書いた上で、野田の桃を見ることなくして「桃花の観」について語ってはならない、と言い切っています。紀行文作家として様々な名所を訪れていたはずの大町桂月をして、これほどまで言わしめる風景とは、一体どれほどのものだったのかが興味深いところです。

野田で桃が栽培されていたことは、明治10年代に陸軍陸地測量部によって作成された「第1軍管地方2万分1迅速測図」(以下、迅速測図と表記)にも見ることができます。

このように、迅速測図には「桃」の字を多くの場所で見ることができます。「桃」の文字が記された場所をピンク色で表した地図も、以下に掲げておきます。

ピンク色の部分が多くあり、広く桃が栽培されていたことが見て取れますね。現在からはちょっと想像し難いのですが、明治時代の頃の野田には桃林が広がっていたようです。ちなみに、野田に鉄道が開通したときのパンフレットに載せられた野田の名産品の中に、瓶詰め醤油や塩せんべいにと共に、桃の缶詰めや桃羊羹が登場します。

 

 

2.「野田の桃源郷を歩こう」のコース

(1)コース概要

さて、ここで、今回の「野田の桃源郷を歩こう」で歩く予定であったコースを紹介します。

① 清水公園の入り口付近を出発し、金乗院(こんじょういん)の前を通って、公園内を北西の方角に進んでいきます。

② フィールドアスレチック(チャレンジ・冒険コース)の受付の前の道を通って清水公園第3駐車場を左折し、座生川に架かる香橋(こうばし)に出ます。

③ 香橋を渡り、坂を少し上ったところで右折し、北に向かって道なりに進んでいきます。

④ 真光寺を左手に見ながら更に進んだところで、桃の花が咲く様子を見学します。

⑤ 真光寺まで戻り、その先を右折し、南西の方角、江戸川の方向へと斜めに進みます。

⑥ 江戸川沿いの道から、岩名古墳公園へと入っていきます。

⑦ 岩名古墳公園を抜けて、座生川沿いの道を、清水公園の方向へと進みます。

⑧ 桜の里公園前の交差点を渡り、清水公園第5駐車場の裏手にある座生沼耕地整理碑などを見学した後、清水公園内の浅間山(せんげんやま)、聚楽館(しゅうらくかん)を経てゴールとなります。

 

地図上で示すとこのようなルートになります。

 

(2)観桃ゆかりの見学ポイント

コース上における観桃ゆかりの見学ポイントは、以下の6ヶ所です。今回のイベントに関わることのみを簡単に紹介します。

① 金乗院

外交官を務めた宮本鴨北(おうほく)による『野田観桃記』(明治28年刊行)の中で、急な雨に降られた鴨北たちが雨宿りをした場所として記されています。鴨北たちが訪れたのは明治26年(1893)のことで、聚楽園(現・清水公園)が開園する1年前の様子を知ることができます。

②座生沼の名残り

戦後に社会情勢が大きく変化していくなかで土地区画整理事業や江戸川スーパー堤防の整備等が進められ、座生沼をめぐる環境も大きく変化しました。この場所は洪水対策の調整池と一体となっており、往時の座生沼をしのぶことができます。

③岩名古墳

横穴式石室をもつ直径約20mの円墳で、江戸時代に見つけられました。『観桃余芳』(かんとうよほう、明治36年刊行)所収の「巌名村観桃記」では「石洞」として載っています。傍らには蔵王権現を祀る祠があります。

④耕地整理の碑

大正11年(1922)に、七福村野田町耕地整理組合によって、座生沼の耕地整理事業の完了を記念して建てられた石碑です。豪雨によって沼の水があふれ出ることによって地域の人々が大変な苦労をしていたことなどが記されています。座生沼の景勝地とは異なった一面を知ることができる石碑です。

⑤浅間山

明治9年頃に浅間講の人たちによって築かれた小山です。『観桃余芳』、『野田観桃記』の双方に記載があり、浅間山から座生沼越しに岩名の桃林を遠望することができました。

⑥聚楽館

観桃に訪れた人たちを迎える迎賓館の役割を果たした建物です。明治39年に渋沢栄一(号・青淵)、明治42年に帝室博物館総長・股野琢(号・藍田/らんでん)が訪れた際に歓待を受けています。また、明治38、39年に訪れた土方の日記に出てくる「倶楽部」も、前後の内容から聚楽館のことを指していると思われます。

 

(3)見学ポイント以外のところ

上記のとおり、見学ポイントは主に清水公園周辺に存在しています。このことは、当時、聚楽園と称されていた清水公園が、岩名で観桃を行うにあたっての拠点のような場所であったためです。当コラムでは触れませんが、このことは、宮本鴨北『野田観桃記』や、土方の日記から見て取ることができます。

一方で、今回のイベントの中で、見学ポイント以外の部分はただ漫然と歩くだけなのか…、と言えば、決してそうではありません。実は、見学ポイント以外の“道すがら”にも、岩名が観桃の地として文人たちから賞賛された魅力が隠されているのです。そのため、それを体感してもらえるようなコースを設定するために、迅速測図と、2万5千分1地形図「野田市」を見比べながら、なるべく当時から存在していた道に重なると思われる場所、もしくはそれに近い道を通るようにしました。2万5千分1地形図「野田市」は、令和元年発行のほか、昭和31年発行(昭和28年測量)などを用いました。ここでは参考までに、昭和31年の地形図に今回のコースを加筆したものと、迅速測図と昭和31年の地形図比較した画像を載せておきたいと思います。

 

 

3.岩名の地の持つ魅力とは?

 

さて、桃源郷に例えられた岩名の地ですが、ここには、観桃の趣を増すような、文人たちを魅了した要素がありました。ただ単に桃の花が多く観られる、という場所ではなかったのです。そのヒントは、冒頭で紹介した大町桂月『東京遊行記』の中に隠されています。その部分を改めて引用してみたいと思います。

 

(前略)

八村の中、岩名は、土地高燥、江戸川と座王沼とにはさまれて、茅屋ぼつぼつあるのみにて、幾んど行人なき塵外の別天地

(後略)

 

ここを見ると、岩名が「塵外の別天地」と表現されているのは、江戸川と座生沼に挟まれて地形的に隔絶していることが関係しているようですね。塵外(じんがい)とは、「俗世間のわずらわしさを離れた所」という意味になるので、岩名が桃源郷として例えられた背景には、この独特の地形――特に座生沼の存在――が大きな鍵となっていたことがうかがえます。この点について、文人たちがどのように記していたのか、資料から見てみましょう。

まず、大町桂月『東京遊行記』ですが、清水公園と座生沼について、次のように記されています。

 

(前略)

野田の一醤油製造屋の隠者の発起にて、近年開かれたる処、座王(ママ)沼に臨める高台の竹藪変じて庭園となり、桜あり、松あり、所謂八村の桃を見渡すといふ円錐丘も沼畔に聳ゆ。座王沼は、長さ一里、幅は、五六町なれども、規則正しき長方形ならずして、出入あれば、眺望は、可成りにひろし。四周の岸高くして、こゝも、『山の湖』の趣を有す。崖を下れば、遊覧の舟あり、以て沼に浮ぶべし。(…中略…)『山の湖』の趣ある沼と眺望の佳とを、こゝの特色とす。

(後略)

 

「野田の一醤油製造屋の隠者」とは、醤油醸造家・5代茂木七郎右衛門(柏衛翁)のことで、清水公園は彼によって明治27年につくられました。「八村の桃を見渡すといふ円錐丘」とは浅間山のことを指しています。桂月は、座生沼の形を「規則正しき長方形ならずして、出入あれば、眺望は、可成りにひろし」と記した上で、沼の四方が高まっていることから「『山の湖』の趣を有す」と評して、その眺望の良さを特色として挙げています。

続いて、江戸・東京の漢詩人である大沼枕山(ちんざん)と、茨城は水海道在住の秋場桂園(けいえん)、松田秀軒(しゅうけん)の3名が、明治17年4月に岩名へ観桃に訪れた際に詠んだ漢詩などをまとめた『観桃余芳』(かんとうよほう)を見ることにします。

『観桃余芳』の中では、彼らと交流のあった文人たちが序文や題詞を寄せていますが、その中に、秋葉猗堂(いどう)による引(いん)があります。これは、猗堂が実際に野田を訪れて書かれた文ではなく、彼らのつくった漢詩文を読んだ上で思い浮かべた光景を表現したものになります。ここで、猗堂は、岩名とその周辺の様子について、次のように書いています。

〈読み下し文〉

(前略)

蓋(けだ)し其の地に竇穴(とうけつ)有り、池沼(ちしょう)有り、幽径(ゆうけい)屈曲(くっきょく)し、宛然(えんぜん)として氿池(きゅうち)のごとし。啻(ただ)に桃花を以て勝(しょう)と為(な)さざるのみ。

(後略)

〈現代語訳〉

おもうに、この地には洞窟があり、池や沼があり、奥深い小道が曲がりくねって続いており、それはさながらあの仇池のようである。このように、この村はただ桃の花だけによって景勝地とされているわけではない。

※読み下し、および訳出は重野宏一氏による。

 

文中の「竇穴」は、現在の岩名古墳を指しており、「池沼」は主に座生沼を指しているものと思われます。なお、「氿池」とは仇池のことで、古来より神仙の住む山池を表しています。

この表現から、岩名の地は、一面に咲く桃の花を観ることができると同時に、浮世から隔絶され趣深い光景を味わうことができる場所として、猗堂の脳裏に浮かんだのです。もちろん、猗堂の文章には文学的な表現が用いられている部分もあるはずですが、それにしても、岩名を「啻(ただ)に桃花を以て勝(しょう)と為(な)さざるのみ」として、桃の花だけではなく、周辺の光景までも含めた上での景勝地であったと評価したことは確かです。

実際、岩名へ観桃に訪れた文人たちは、まず、この座生沼に舟を浮かべて、沼から見える桃花の景色を楽しみました。松田秀軒(しゅうけん)「巌名村観桃記」(『観桃余芳』所収)ではこれを次のように表現しています。

〈読み下し文〉

(前略)

舟を中流に泛(うか)ぶるに、断崖数仭(すうじん)、松樹(しょうじゅ)鬱然(うつぜん)として、斑竹(はんちく)其の半腹(はんぷく)に生ず。棹(さお)を転じて西行するに、満岸皆な桃林にして、菜花其の間に点綴(てんてい)す。是に於いて心胸快然として、殆(ほと)んど武陵渓の想を做(な)す。

(後略)

〈現代語訳〉

小舟を中流に浮かべると、両岸は数仭の高さで、そこには松の木々が鬱蒼と茂り、まだら模様の竹がその真ん中くらいの高さに生えている。棹を回して今度は西に行くと、桃の花が岸いっぱいに咲き誇り、そのなかには菜の花がぽつぽつと咲いている。その光景を目の当たりにして、私の胸のうちは何とも言えぬ心地よさに満たされ、それはあの武陵の谷を想起させるものであった。

※読み下し、および訳出は重野宏一氏による。

 

このように、満開の桃花の中を散策するだけでなく、座生沼に小舟を浮かべ、そこから桃の花を眺めたのです。現在でも、ボートや屋形船を使った水辺からのお花見が楽しまれていますが、岩名ではこれと同じような楽しみ方ができました。ここに、岩名桃林の魅力があったのだろうと思うのです。

 

おわりに

今回のイベントでは、清水公園を起点に、岩名を経て、また清水公園へと戻るルートを設定しました。当然のことながら、文人たちが訪れた明治時代の風景とは、大きな変貌を遂げています。ですが、彼らが観桃に訪れたのと同じ時期に、実際の桃の花をアクセントとして文人たちが書き残した漢詩文を頼りに歩いていくと、往時の野田の様子に少しでも思いをはせることができるのではない…。このように考えて企画をしてみました。今回は残念ながら中止となってしまいましたが、また機会がありましたら改めて企画をしまして、皆さんと一緒に、岩名の地を歩きたいなと思います。

(文責:寺内健太郎)