令和3年2月26日、野田市郷土博物館の建物が、国の登録有形文化財となりました。水平を意識したモダニズムに連なる意匠や自然光を間接的に取り込む環境設計も秀逸であり、登録基準の「造形の規範となっているもの」として評価されたもので、野田市としては52件目の登録となります。
当館は野田地方文化団体協議会(現・野田市文化団体協議会)を中心とする地域住民らの博物館建設運動により昭和34年に開館した千葉県で最初の登録博物館で、設計は建築家・山田守が行いました。
山田守は明治27年、岐阜県に生まれ、大正9年7月、東京帝国大学(現・東京大学)建築学科を卒業すると、石本喜久男、堀口捨巳、瀧澤眞弓、森田慶一、矢田茂と共に、当時の建築界の主流であった西洋の「様式」建築から分離し、建築を芸術ととらえて「創作」を重視する「分離派建築会」を結成、建築界に新たな流れを生み出していきます。同年、逓信省に入省し、東京中央電信局や東京逓信病院などの数多くの建築を手がけました。逓信省を退官後、昭和24年に山田守建築事務所を立ち上げ、自身が教授となった東海大学の湘南キャンパスの校舎や日本武道館、京都タワーなどを設計しました。
当館では、平成21年に開館50周年を記念して、当館の建築的な特徴と、山田守と野田の関わりを紹介する特別展「建築家山田守と野田市郷土博物館」(以下「山田守展」と記す)を開催しています。
「山田守展」の調査の中で、野田市立第一中学校講堂兼体育館建設工事(昭和30年竣工)と北部小学校校舎増築工事(昭和33年竣工)に山田守が関わっていることが明らかとなりました。2つの工事は当館の工事に先行して行われており、当館と山田守、ひいては野田と山田守の関係を知る上でも重要な出来事と思われます。
今回の学芸員コラムでは、「山田守展」の後に判明した調査結果を含めて、2つの建築についてご紹介します。
1.野田市立第一中学校講堂兼体育館
野田市立第一中学校は、昭和22年に開校した野田町立野田中学校がもとになっています。昭和25年の市制施行に伴い、野田市立中央中学校を名称が変わり、翌26年に第一中学校と第二中学校に分かれました。
一中の講堂兼体育館は、昭和28年7月の第5回野田市臨時市議会に建設の請願が出されたことから建設計画が始まり、昭和30年6月に完成しました。建物は木造平屋建スレート葺きで、工事は基礎や金物、屋根、左官など様々な工程ごとに市内外の業者が別々に請け負いました。工事契約の締結を審議した昭和30年1月の第1回野田市議会の議案の中には建物の図面も綴られていますが、設計者の名は記されていません。
野田市立興風会図書館所蔵の「第一中学校講堂建築関係書類」にも建物の図面も綴られていますが、こちらにも設計者の名は記されていません。しかし、同書類に綴られている「工事経過報告」の中に「設計を東京都文京区湯島三組町山田守建築事務所に委託」と書かれており、山田守建築事務所が設計をしたものであることがわかります。また、同書類の中には、現場監督の選任を任されていた野田市建設課の嘱託技師・伊藤直治が、山田守建築事務所の建築士・高瀬保を推薦した文書も綴られています。
伊藤直治は明治40年から昭和3年まで逓信省に勤めた技師です。山田守の逓信省在職期間とも重なり、山田守の設計した東京中央電信局舎(大正14年竣工)の建設工事の監督を務めています。逓信省退官後は野田醤油株式会社に勤め、御用醤油醸造所(通称「御用蔵」)(昭和14年竣工)や財団法人興風会図書館(昭和16年竣工)の設計を行い、昭和20年代半ばから野田市の嘱託職員として市内の小中学校の建設工事に携わりました。当館の建設時にも技師として建設委員会に出席しており、「山田守展」の調査などから、山田守と野田を繋いだ人物と考えられています。
一中の講堂兼体育館の設計を山田守建築事務所に依頼することに伊藤直治がどう関わっていたかは明らかではありませんが、現場監督を推薦するなど、その関係の深さが垣間見えます。
講堂兼体育館は学校行事だけでなく、農産物共進会など地域の行事の会場としても使用されていましたが、生徒数の増加などにより手狭になったため、昭和54年に改築されました。
2.北部小学校校舎
北部小学校は明治6年に開校した吉春小学校と岩名小学校を前身とし、統合や名称変更を経て、昭和25年の野田市制施行の際に北部小学校になりました。
昭和31年4月に火事によって南側校舎の普通教室3室と図書室、便所棟が燃えてしまい、講堂を臨時の教室として授業を行っていました。昭和32年2月に地区の代表者やPTAから北部小学校建設整備の請願書が出され、明治23年建設の校舎の解体や大正3年建設の校舎の移転と合わせて、昭和33年5月に新たに木造2階建てスレート葺きの校舎が完成しました。この新校舎の設計が山田守建築事務所によって行われたのです。
北部小学校についても、工事契約について審議した昭和32年11月の第6回野田市議会会議録には設計者の名前は見当たりませんが、タウン誌『野田週刊』第385号(昭和33年2月24日)に昭和32年11月の第6回野田市議会の質疑応答の内容が掲載されており、その中に「この設計は山田守建築事務所の設計でありましてその間に伊藤君をやつて主として計画を立てたのでありますが」との記述があり、山田守建築事務所が設計したことがわかります。この「伊藤君」とは前述の嘱託職員・伊藤直治のことで、北部小学校の工事にも伊藤直治が深く関わっていたことがうかがえます。
昭和33年に建設されたこの校舎は、平成6年に老朽化のため解体されました。
3.市内教育施設設計者としての山田守
第一中学校と北部小学校の工事の中には、「山田守建築事務所」の名前は出てきても、山田守その人の姿は見えません。また、前述の文書の中に、伊藤直治が高瀬保を一中講堂工事の現場監督として推薦した理由として、「本工事の設計を掌り技術其の他の点より最適」との言葉があることから、一中の工事では高瀬保が設計の中心的な役割を果たした可能性もあります。
対して当館の図面には山田守建築事務所の名と共に「設計者 MAMORU YAMADA」と明記され、博物館建設委員会にも山田自らが出席し、委員に設計の概要について説明を行っているほか、落成開館式にも出席しています。
このように、2つの学校と当館とでは、山田守の関わり方に差があったとも考えられますが、昭和20年代後半から昭和30年代前半にかけて、野田市には山田守建築事務所が設計を行った建設工事が、当館も含めて3つあったことは確かです。
「山田守展」以来の疑問の一つに、「なぜ山田守という高名な建築家に設計を依頼したのか(できたのか)」という問いがあります。未だ明らかではない点も多く残されていますが、今回ご紹介した2つの工事の存在から、当館の設計時には、山田守の名は東京の高名な建築家としてだけではなく、市内教育施設の設計者として、既に市当局の内部では知られた存在であったとことは間違いないと言えるでしょう。
《関連サイト》
○株式会社山田守建築事務所ホームページ「山田守について」(外部サイト)
※ページ下部の「受賞・イベント」に平成21年度で当館で開催した「山田守展」が記載されています。
○千葉県ホームページ「登録有形文化財(建造物)の登録の答申について(11月20日)」(外部サイト)
※令和2年11月20日に当館が登録有形文化財(建造物)として答申された際の記事です。
《参考》
山田守建築作品集刊行会編『山田守建築作品集』東海大学出版会、1967年
向井覺『建築家山田守』東海大学出版会、1992年
建築家山田守展実行委員会編『建築家山田守作品集』東海大学出版会、2006年
野田市郷土博物館編『今に生きる山田守の建築―野田市郷土博物館 竣工50年を迎えて―』2009年 ※特別展「建築家山田守と野田市郷土博物館」展示解説図録
大村理恵子・本橋仁編『分離派建築会100年 建築は芸術か?』朝日新聞社、2020年
鈴木里行「野田に生きた立川流宮大工佐藤庄助則久・里次則壮」その84(『月刊とも』1993年1月号)
田尻美和子「博物館建築の未来と活用を考える~野田市郷土博物館の場合~」(『野田市郷土博物館年報・紀要』第3号2009年度、2011年)
『創立百年記念志』野田市立北部小学校建設促進協議会、1975年
『野田市立第一中学校創立五十周年記念誌』野田市立第一中学校、1997年
『市報のだ』1994年10月1日号、野田市
染谷才一郎『野田週刊』第385号(昭和33年2月24日)、第397号(昭和33年5月19日)、野田週刊社
「昭和28年 議会結果及び会議録綴(二) 総務課」野田市
「昭和30年 議会結果及び会議録綴(一) 総務課」野田市
「昭和32年 議会結果及び会議録綴(一) 総務課」野田市
「昭和32年 議会結果及び会議録綴(二) 総務課」野田市
(文責:柏女弘道)