※本文中に掲載しておりました野田市歌楽譜の画像につきましては、令和3年3月31日をもって公開を終了いたしました。何卒、ご理解を賜りますようお願い申し上げます。
NHK連続テレビ小説『エール』がフィナーレを迎えようとしていますが、皆さんもご存じのとおり、主人公の作曲家・古山裕一のモデルとなったのは、昭和の時代に活躍した作曲家・古関裕而(1909~1989)です。レコードとして発売された歌謡曲や、ラジオや舞台などの音楽だけでなく、応援歌や校歌、社歌などおよそ5000曲を作ったと言われます。
では、私たちの住む野田市の歌、「野田市歌」も古関裕而が作った曲であることはご存じだったでしょうか。野田市歌は、昭和25年(1950)の野田市制施行にあわせて作られ、同年11月3日に制定されました。公募で選ばれた香取佳津見の歌詞に曲を付けたのが、古関裕而だったのです。
野田市歌の誕生70年にちなんで、野田市歌と古関裕而にまつわるエピソードをご紹介します。野田市歌に関する資料は、当館だけでなく、古関の生まれ故郷に建てられた福島市古関裕而記念館にも保存されています。まずは、同記念館の資料から見ていくことにしましょう。
1.福島市古関裕而記念館に残された野田市歌楽譜
古関裕而(本名・勇治)は、明治42年(1909)に福島市大町の呉服屋に生まれ、昭和5年(1930)にコロムビア専属作曲家として上京するまでこの地で暮らしました。昭和63年に建てられた古関裕而記念館には古関ゆかりの品々を所蔵しており、そのなかには野田市歌の譜面も含まれています。
市歌の制作にあたっては、まず、昭和25年の8月末に千葉県民から歌詞を募集した結果、香取佳津見の作品が選ばれ、それに古関が曲を付けました。古関に作曲を依頼した経緯はわかりませんが、野田市から古関に歌詞を伝えた際の文書が同記念館に残されています。右下に野田市長印が押されており(当時の市長は戸邉織太郎)、1番~3番までの歌詞が記載されています。その上には横書きで「歌詞の修正、若干は結構です」、右上には縦書きで小さく「歌詞の当選は未だ発表しておりません」と書かれています。
古関に対する「若干の修正は構いません」という言葉は、コロムビアの専属作曲家で当時はNHKのラジオドラマの音楽にも携わるような、第一線で活躍する作曲家に対する配慮だったのかもしれません。しかしながら、古関はこの歌詞に何ら手を加えることなく、野田市歌を作曲しています。
歌詞の募集が公表されたのが8月末、募集の締切が9月30日、そして10月27日には古関自身が野田市を訪れて指導会が行われ、11月2日の「市歌発表音楽会」で市歌がお披露目となりました。このような限られた日数のなかで野田市歌は作曲されたのです。古関裕而記念館の2階には、様々な資料とともに、古関の書斎が再現されています。8畳ほどの和室には楽器は置かれず、部屋の真ん中に3つの座卓がコの字形に並べられているのみでしたが、これは複数の仕事を同時に進めるための工夫だったようです。
そのような中で作曲された野田市歌の譜面を見てみましょう。メロディー譜とピアノ譜の2種類が残されています。ピアノ譜の表紙部分には「舟越君清書願ひます」とお弟子さんに清書を頼む旨が記されており、実際に古関が書き上げた野田市歌の楽譜であることがわかります。どちらも鉛筆書きで手早く書かれたような筆致で、余白部分には計算のメモがあったり、異なるリズムが書かれていたりと、作曲の様子をうかがうことができます。
同記念館では、作曲家・古関裕而にまつわる様々な資料を展示しており、福島市内の古関ゆかりの地には碑なども建てられています。この機会に古関の「音楽の故郷」、福島市を訪れてみてはいかがでしょうか。
※福島市古関裕而記念館のホームページはこちらからご覧ください(外部リンク)。
2.野田市郷土博物館の野田市歌楽譜
続いて、当館の収蔵資料となっている「野田市歌楽譜」をご紹介します。
当館が収蔵する楽譜は、福島市古関裕而記念館の楽譜が清書され、野田市に渡された楽譜になります。この楽譜は、差出人欄に古関の住所・氏名が印刷された茶封筒に入れられており、真ん中には青の色鉛筆で「野田市歌 ピアノ伴奏譜」と書かれています。ちなみに、この茶封筒には郵便切手や消印の跡はなく、古関の関係者から直接渡されたものと思われます。それでは、楽譜を見てみましょう。
厚手の五線紙に、「野田市歌 古関裕而曲」と記され、朱色で「古関裕而」の印が押されています。古関裕而記念館の楽譜と比べると、当館のものはペンで丁寧に記されていることがわかります。これは古関が書いた楽譜をきれいに書き直したものであるからです。ただし、書き直すと言ってもあくまでも清書で、古関の印も押されていることから「オリジナルの自筆譜」という位置づけになります。この楽譜は当初、野田市役所で保管されていましたが、昭和34年(1959)に当館が開館するにあたって博物館資料が収集された際に、当館の資料となったのでした。
3.市民に歌い親しまれる野田市歌へ
最後に、野田市歌に関するエピソードを1つご紹介しましょう。昭和56年11月1日号の『市報のだ』には、「野田市歌の音符を訂正」という見出しの記事が載っています。歌詞の「おーおー野田市♪」という部分、9小節目の1つ目の2分音符を「レ」→「ミ♭」に訂正した、という内容です。この記事の発端は、野田市議会の染谷司元議員が野田市例規類集に載せられていた野田市歌の楽譜を見て「おや?」と思ったことがきっかけでした。染谷氏は子どもの頃に野田市制5周年や、野田市と川間村・福田村の合併記念行事などを経験し、折に触れて市歌に接しており、また所属する野田市民合唱団で歌う機会もあったことから、いつも自分たちが歌う音程と楽譜が違っていることに気付いたのです。いつも歌っていた音が違っていたのだろうか…、それとも楽譜の誤植だろうか、そう思った染谷氏は、市歌の作曲者である古関に確認してみることを提案したのでした。
同年9月22日に野田市の職員が直接、古関のもとを訪れて楽譜を確認してもらったところ、やはり誤植であったことがわかります。昭和54年には70歳となり勲三等瑞宝章、レコード大賞特別賞を受けていた古関でしたが、音ひとつ間違っているかどうかということにまで、直接会って確かめてくれたその人柄をしのぶことができます。なお、問題の箇所は当館収蔵の自筆譜では正しく「ミ♭」となっています。この後にも『週刊のだ』の投稿欄に「市歌が間違っている」という記事が掲載されており、違ったままの楽譜が使われてしまったこともあったようです。こうしたことからも、間違いがあった際に確認することができる楽譜が、博物館に収蔵されていることの意義は大きいと言えるかもしれません。
学校や自治体、会社、青年団など、古関はさまざまな団体からの依頼に応じて数多くの曲を手掛けました。自伝『鐘よ鳴り響け』の「一筋の道」という項の中で、自身の作曲活動について「テーマや詩を前にして、その情景を浮かべる。すると、音楽がどんどん頭の中に湧いてくる。私はそれを五線紙に書きとる」と記しています。野田市歌もこうして生み出されたのでしょう。この機会に、作曲家・古関裕而を想いながら、野田市歌にも親しんでみてください。
《参考》
古関裕而『鐘よ鳴り響け-古関裕而自伝-』集英社文庫、2019年
※同書は1980年に主婦の友社より単行本として出版されている。
福島市・福島市教育委員会『福島市古関裕而記念館パンフレット 鐘よ鳴り響け』1989年
相浦秀也「野田市歌の誕生について」(『かつしか台地』15号、野田地方史懇話会、1998年)
相浦秀也「野田市歌について」(『野田市史研究』第8号、1997年)
岡田功「市歌が間違っている」(『週刊のだ』No.333、1990年5月25日号)
『市報のだ』昭和56年11月1日号(野田市)
※該当する記事は『野田市報縮刷版3』14ページから見ることができます。
『昭和56年第4回野田市議会定例会会議録』野田市議会、1981年
(文責:寺内健太郎)