野田市市民会館は、大正13年(1924)頃に建てられた醤油醸造家・茂木佐平治家の邸宅(以下、「旧茂木佐平治邸」)で、来年令和6年(2024)に建築100周年を迎えます。
昭和32年(1957)から野田市市民会館となり貸部屋業務を行ってきましたが、木造平屋建瓦葺の寄棟造で庭園を備えた趣のある邸宅は、大正期の近代和風建築の好例として貴重なものであり、主屋と茶室は平成9年(1997)に国登録有形文化財に、庭園は平成20年に千葉県初の国登録記念物(名勝地関係)となっています。
日本建築の各和室の境には多様な欄間が設けられています。欄間は通気や採光のほか、そこに施された透かし彫りなどにより室内装飾の役割も持っています。旧茂木佐平治邸の欄間にも様々な文様が彫られていますが、その中に一風変わった欄間があります。現在の竹の間と楓の間の間にはめられた欄間で、円の中に様々な文字が透かし彫られています。
この欄間については、令和2年度に当館で開催した企画展・市民アート展「ん?木になるアート」に関わる調査の中で、中国の漢代の遺跡から出土する瓦当(がとう)の文様に非常によく似ていることがわかり、展示テーマであった“木”に関わる旧茂木佐平治邸の見どころとして展示の中で紹介を行いました。
本コラムではその後の調査も含めて、間もなく建築100年を迎える旧茂木佐平治邸の見どころの一つとして瓦当文様欄間をご紹介いたします。
1.瓦当とは
瓦当は瓦の一種である軒丸瓦(のきまるがわら)の先端の円形部分を指します。建築上の役割は、風雨を防ぐためのものですが、そこには様々な文様が施され、装飾としての役割も担っていました。日本には中国から伝えられ、寺院建築などによく見られます。
瓦当には雲や渦などの文様や四神などの図像、文字が表されています。古くは中国の西周時代の遺跡から出土しており、春秋から戦国時代にかけて普及していきました。戦国時代までの瓦当は多くは半円形でしたが、秦代以降円形が主流となり、漢代に入り文字を表した瓦当が増えていきます。この秦から漢にかけての瓦当は種類も豊富で意匠的にも優れているとされています。
2.旧茂木佐平治邸の瓦当文様欄間の内容
旧茂木佐平治邸の6種類の瓦当文様欄間は、全て文字が透かし彫られています。瓦当の文字は多くは篆書や隷書が用いられおり、内容により以下のような分類がなされています。
【宮殿】…宮殿や城門の名を示したもの。
【官署】…行政機関の建物に用いられ、役所名やその機能を示すもの。
【祠墓】…神や先祖を祀った建物に用いられたと思われるもの。
【吉語】…吉祥を示すおめでたい語句が刻まれたもの。
【雑】…上記の分類に含まれないもの
(伊藤滋編著『秦漢瓦当文』の引く、陳直『秦漢瓦当概述』による分類)
欄間のそれぞれの文字について、どんな意味があるのか見てみましょう。
(左)與天無極【吉語】
右上「與」→右下「天」→左上「無」→左下「極」と書かれています。天とともにいつまでも尽きることがないことを示す吉祥語です。
(中)右空【官署】
右空は刑徒を掌る「右司空」のことで、秦から漢代に置かれた官名に由来する文字です。本来「空」の穴冠の下は「工」ですが、欄間では「王」になっています。これは、後述する欄間をつくる際に元にした可能性がある『秦漢瓦当図』が「王」になっているからだと思われます。
(右)嬰桃轉舎【官署】
右上「嬰」→右下「桃」→左上「轉」→左下「舎」と書かれています。漢代の離宮・甘泉宮の遺跡に近い、陝西省咸陽市淳化県鉄王郷塔爾寺村の遺跡から採集された瓦当です。姚生民編著『甘泉宮志』では左上から時計回りに「轉嬰柞舍」と読むなど、様々な説を記載した上で、「嬰」は「櫻」で木偏が省略されていること、「桃」は偏と旁を反対にしてさらに旁の一部を省略していること、「轉舎」は旅行者の宿泊施設である「伝舎」のことで、「櫻桃」はその名前であるという説が正しいのではないかとしています。「櫻桃」はサクランボによく似た実をつけるユスラウメという植物です。
(左)大【祠墓】
雲を図案化した雲文の中央に「大」の文字が配されています。一文字なので解釈は困難ですが、伊藤滋編著『秦漢瓦当文』では【祠墓】に分類しています。同書には他の【祠墓】の瓦当として墓主の姓を示す「金」や「李」など一文字の瓦当が掲載されているため、この「大」も墓主の姓を表しているのかもしれません。
(中)衛【官署】
右空と同じく官名に由来するもので、秦から漢代にかけて置かれた、宮門を守衛する兵士を管轄する「衛尉」に由来すると考えられています。
(右)延壽萬歳【吉語】
右上「延」→右下「壽」→左上「萬」→左下「歳」と書かれています。いつまでも長生きすることやいつまでも栄えることを示す吉祥語で、書道作品などにも多く見られます。
3.欄間の瓦当文様はどのように選ばれたのか
秦漢代の瓦当文様は清代に広く世に紹介され、清末から中華民国の時代には数百種類が知られていました。その中で旧茂木佐平治邸の欄間になぜこの6種類が選ばれたかを考えると、何か一つの出典があるのではないかと思われます。その可能性が高いと思われるのが、日本で天保9年(1838)に出版された『秦漢瓦当図』です。
『秦漢瓦当図』は清の畢沅が秦~漢代の文字のある瓦当40種を選んで模写し、そこに自身の四言六句の賛を付けたもので、漢詩人で書家でもあった館機(号:柳湾)によって出版されました。この『秦漢瓦当図』の中に旧茂木佐平治邸の欄間の6種が全て含まれています。
『秦漢瓦当図』所収の「與天無極」「右空」「櫻桃轉舎」「大」「衛」「延壽萬歳」部分
(京都大学附属図書館所蔵、京都大学貴重資料デジタルアーカイブより)
瓦当の文字は同じ語句でも書体や周りの模様が少しずつ異なっているものが多くありますが、『秦漢瓦当図』と欄間は、「右空」と「衛」の周りの格子模様が少し異なるだけで、字形や他の文様がほぼ一致します。特にいずれも「右空」の「空」の穴冠の下が「王」になっているのが特徴的です。本来、穴冠の下は「工」で、下に示した『三輔余塵 下』掲載のもののほか、伊藤滋編著『秦漢瓦当文』掲載の拓本3点(出土地未記載)や『漢長安城桂宮 論考編』掲載の桂宮出土の拓本1点も「工」になっています。
下部を「王」とする字形の「右空」の瓦当が実際に存在しているのかはわかりませんが、この点からも『秦漢瓦当図』が欄間の元になっている可能性があると考えられます。
4.欄間の向き
現在、旧茂木佐平治邸の瓦当文様欄間は、楓の間側から見ると文字が正しく読めるようにはめ込まれています。しかし、茂木佐平治邸であった頃の古写真を見ると、反対の竹の間側から読めるようにはめ込まれていたようです。
表裏だけでなく左右も逆になっています。いつ入れ替わったのかは定かではありません。茂木佐平治邸であった頃に意図をもって入れ替えた可能性もありますが、各部屋の用途に関する聞き取りでは、現在の楓の間は寝室で、竹の間の隣の松の間が主人部屋であったとの話もあり、来客などが目にする可能性が高いことから、やはり古写真のように竹の間側から読めるようになっているのが正しい向きではないかと思われます。
旧茂木佐平治邸は、細部にいたるまで様々な趣向が凝らされており、たくさんの見どころがあります。今回ご紹介した瓦当文様欄間にしても、何のためにこの場所に設けられたのかなど、たくさんの疑問が残っています。建築100周年という節目に向けて、これからも調査を進めていきたいと考えています。
《参考文献等》
伊藤滋編著『秦漢瓦当文』日本習字普及協会、1995年
伊藤滋編著『中国古代瓦の美』郵研社、2013年
奈良文化財研究所学報第85冊『漢長安城桂宮 論考編』独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所、2011年
村上和夫『中国古代瓦当文様の研究』岩波ブックサービスセンター、1990年
姚生民編著『甘泉宮志』三秦出版社、2003年
市川任三「館柳湾編著考」(『立正大学教養学部紀要』第11号、1977年)
東國惠「中国古代瓦当」(『徳島大学総合科学部人間社会文化研究』第3巻、1996年)
京都大学貴重資料デジタルアーカイブ(https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/)
(文責:柏女弘道)