当館に昭和41年に寄贈された絵馬2点である。共に祭礼を描いているが、この祭礼に当たる行事は現在には伝わらず、当時あった三ケ尾沼も既に失われている。奉納月、行程等がほぼ一致していることから同じ行事を描いたものと判断し、比較しながらこの幻の祭りがどのように行われていたのか読み解いてみたい。
(1)絵馬の基礎情報と奉納日
安政5年(1858)、明治6年(1873)の2点。比較として15年の開きがあること、改元を挟んでいる点を念頭に置きつつ、以後、安政版を①、明治版を②と表記する。両方とも人々が社を巡礼する祭日の様子を描いており、共に琴平神社旧蔵の由来があり、後に当館に寄贈となった資料である。
- 書かれている墨書の情報
①…
奉 献
御寶前 大願成就祈■
當村 西■■ ■■
于時安政五歳 午九月日 敬白
②…
奉 献
大願 成就
明治六癸酉九月日 氏子中敬白
①は「安政5年(1858)、午年、9月」ということになる。①は画面に剥落が多く読み取れない部分が多いが、西という字ははっきり読み取れるため、西三ケ尾氏子中…のような文字ではなかっただろうか。
②は文字情報は少ないが剥落も殆どなく、「明治6年(1873)9月」ということが読み取れる。
いずれも旧暦9月である事がわかり、現在では大体10月頃となる。しかし現在西三ケ尾では秋にこれらに該当するような祭りは行われていない。
(2)描かれた図案と2点の比較
寄贈時の情報とその後の調査により、当館ではこの絵馬を「裸参り図」と呼称していた。これらの図は祭礼日当日を描いているようであり、禊をしに水に飛び込むところから、順番に複数の社を回って最後に神社を参拝し奉納する、という図である。なお補足しておくと参拝者はふんどし姿であり全裸ではない。「裸参り」と「裸祭り」の混同を避けるため、念のため言及しておく。
同絵馬は西三ケ尾の琴平(金刀比羅)神社蔵となっていたことから長く中央の神社が琴平神社と考えられていたが、調査したところ②に描かれている鳥居の社額からかろうじて「香■宮」と読み取れたため、距離から考えて西三ケ尾の香取神社と判断した。①の本宮も規模等から同様と思われる。
①では神社の他3箇所の社、②では4箇所の社が描かれている。何故一箇所増えているのかは不明。ただし②の左奥の赤い社については参拝者がいないため、祭礼と無関係の近所の寺社を景色の都合上表現したものと判断している。またそれぞれ覗く太陽が描かれており、一般的には日の出前に禊をし、午前中には参拝行程まで終えるものと考えるのが自然である。加えて、①では禊段階から拝礼時まで提灯を手にしていることから早朝夜明け前頃の禊から始まる行程と思われる。一方②では誰も提灯を持っておらず、祭事の時間変更があったか、作図段階で意図的に省いたか、元々必要とするほど暗くなく取りやめた…などの可能性があるが不明点である。なお祭礼とは関係ないが、②には①には見られなかった断髪の人、いわゆる「散切り頭」の人がちらほらと見え、江戸から明治への「文明開化」を挟んだ流行の変化もこういった絵馬から読み取れる面白い注目ポイントである。
(2)関係する神社及び周辺社の基礎的な由緒
さて西三ケ尾にはこの香取神社や琴平神社を含め、野田市宗教施設総覧に掲載があるのは
香取神社 西三ケ尾字宮前 創建:寛文9年(1669)
琴平神社 西三ケ尾字栗山下 創建:元文2年(1737)
浅間神社 西三ケ尾字栗山 創建:寛永6年(1629)
愛宕神社 西三ケ尾字浅間下 創建:宝暦2年(1752)
雷電社 西三ケ尾字溜台 創建:享保15年(1730)
これらの神社が西三ケ尾の地域社で、この祭礼は香取神社を中心にこれらの村社を回ったものと思われる。うち溜台の雷電社だけがかなり遠方になり方角も外れるため、描かれた神社は香取、琴平、浅間、愛宕であると考えられる。
(3)2点の絵馬から読み取れること
①描かれた「三ケ尾沼」
かつて三ケ尾には三ケ尾沼という大きな沼があった。今のこうのとりの里などはちょうどその埋め立て地部分に該当する。大沼であったが、大正頃には消滅していたと考えられる。「利根川改修沿革考」によると、利根運河工事の一貫で明治18年に技師ムルデルにより沼のほとんどを埋め立てて三ケ尾運河とする計画が立った。沼の埋め立てが完了した時期がいつか不明であるが、計画の明治14年の測量地図にははっきりと沼の水域が記されている。当時の三ケ尾沼については、船から竹竿を突き刺して測量したところ「深泥にして」「二人の力にて押入せしむるに其中央にて凡そ十六尺の深に達したり。」とある。泥層を含め約5m近い水深があり、水量変化が多く洪水、干ばつの影響を受けやすかった広範囲の湿地と想像出来るが、実際、冬期の水量の少なさと夏季の多さを見誤り、計画に影響が出たと記されている。
地図に残る三ケ尾沼のほとりも入り組んだものになっており、この水際に琴平神社、浅間神社は鎮座し、何よりその水辺で禊を行っている様子が描かれていることから、祭りの行程に重要な沼であること、また人々が飛び込む沼地の風景の向こうに高瀬舟の浮かぶ利根川が見えており、川と沼は区別されていて、祭りで浸かるのは沼であることが分かる。また沼にかかる橋がありその付け根に位置していたのが琴平神社、浅間神社であるので、おおよその位置関係が見えてくる。これらの神社は沼がなくなった後も遷座されずに元の住所のままであることが地図や航空写真などからも確認でき、現在は面影もほとんどないが、この神社を目印に在りし日はここが水辺であったことを今に知ることが出来る。
②祭礼内容について
共通項として、
・描かれた参加者はふんどし姿の男性のみ
・水辺で禊を行う
・祭日が「九月」
・複数の社を巡礼する
ことが確認できる。
地区の社の巡礼に関していえば、現在の西三ケ尾地区では、正月の行事として香取神社を中心に琴平神社、浅間神社を回るオビシャを行っている(本来は地区の多くの人が参加する祭だが、2023年はコロナ感染症対策として行事を縮小し、西三ケ尾地区の代表の氏子の方々により神事のみ粛々と執り行われていた)。
さて特に注目したいのは「水に浸かる水垢離」と「巡礼」の点である。
これらの点は茨城から千葉を中心に多い浜降り行事関連の祭礼の名残ではなかっただろうか。浜降りとは名の通り海辺に関連した祭礼行事であり、性質として同じようなものは全国に見られるが、ここでは特に房総一帯に広がる御浜下り行事のことを指す。元は神社が神輿を海岸まで送り、海に浸けるなどして禊を行い、また帰ってくるという巡航儀礼であり、常世の国へ繋がる海に向かうことは禊の他、再生の力を頂いてくるという意味合いがあった。複数社の神輿が海辺に集うというものもあれば、神輿一基が地域の社を廻って海に向かうというものもある。そしてかつての香取の海をはじめ、半島に入り組んだ川は自然の用水路のような役割を果たし、海から遠い内地にも川という水辺を巡る浜降り行事として広がり、今日でも数多く残っている。野田では西三ケ尾とかつての三ケ尾沼を挟んですぐ対岸のエリアである三ツ堀の泥祭りが浜降り行事として有名である。三ツ堀は水ではなく利根川脇の泥沼に向かうが、この泥に神輿ごと浸かることに意味があり、これは海から再生の力を得る部分だけが形骸化したものであろう。
西三ケ尾の祭りの話に戻すと、神輿を担いでいる様子はないが、恐らくほぼ村中の男性が参加したような規模で、②の水垢離周辺の様子から見るとふんどしを締めている人が見られることから、裸で浸かって、ふんどしを締め、巡礼に向かう…という順序と解釈するのが自然である。ただし浜降りならば巡礼後に水辺に向かう祭りも多く(三ツ堀の泥祭りも同様である)、①の人物たちの進行方向から見れば禊から巡礼の流れと思えるのだが、絵馬は普通右から左に画面の流れを見るため、行程がまるごと逆であった可能性も完全には否定しきれず悩ましいところである。
いずれにせよ、この祭礼が取りやめられた理由として、三ケ尾沼の消滅により水辺という場所から遠くなってしまい、継続が困難になった、意味をなさなくなったことが原因と考えられる。
(4)絵馬に描かれた景色の方角
失われた沼や水辺の地形も含め、方角や景色はある程度デフォルメがあり、(例えば画面の情報をそのまま受け取ると太陽が北から昇ったことになってしまう)遠近感等も省略されている。画面右に沼があり、橋、浅間や琴平があり、右に香取神社がある…とすると①に関しては図のような視点だろうか。現実に見ながら描いた訳ではなく行程をイメージしながら描いたものであろうから、香取神社を右中央に据えた場合の、おおよその位置関係から見ると西側から見たような視点になる。三ケ尾沼は失われたが、これらの神社は今も同位置に見ることが出来る。
(5)おわりに
今回注目した琴平神社旧蔵の絵馬資料は、既に失われた祭礼の様子だけでなく、170年前の西三ケ尾の景観を記録した貴重な資料である。日常風景がなかなか残りづらい時代に、絵馬は貴重な視覚情報を残してくれている事が多く、改めて発見があり面白いものであった。この祭礼に関しては残念ながら失われてしまったようであるが、今も西三ケ尾では幾つかの祭礼行事が地域の人々により大切に守り伝えられている。
なお今回紹介した絵馬は平成25年に当館が発行した特別展「野田の絵馬 ならわし、なりわい、わざわい、たすけあい」にも掲載があるが、今回の調査によって新たな発見があったため当時とは掲載内容が異なる。
また、かつて存在した三ケ尾沼を写した古写真等をお持ちの方は、是非とも博物館に情報をお寄せいただけますと幸いです。
(文責:奥村)