野田市の上町にある愛宕神社は、延長元年(923)の創建と伝えられる古社で、野田開墾の際に、火の災難を防ぐために山城国愛宕郡愛宕(現・京都市右京区)の里から火伏の神である加具土命の分霊を祀って氏神としたと伝えられています。現在の本殿は文政7年(1824)に再建したもので、白木造りに彫刻を多用した江戸時代末期の社寺建築の特徴を示す重要なものとして、千葉県指定有形文化財となっています。
流山街道の愛宕神社前交差点には、石造りの大きな鳥居が建っています。大正11年(1922)に建立されたもので、今年でちょうど100年を迎えました。
非常に大きくて目立つため、博物館職員も車でのご来館の方への道案内の目じるしなどとしても使っているこの大鳥居ですが、当初は現在とは異なる位置に建てられていました。
今回の学芸員コラムでは、この愛宕神社大鳥居の建立と現在の場所に移設されるまでをご紹介いたします。
1.大鳥居建設記念絵はがき
当館では、この大鳥居の建設を記念した3枚の絵はがきを所蔵しています。
本町通りを南から北に向かって、鳥居の石材を運搬している様子で、場所は現在の愛宕神社交差点の手前です。石材の運搬は在郷軍人会野田町分会と野田町青年団の奉仕により大正11年9月1日から3日間にわたって行われました。大勢の人たちが2本の綱で石材を引っ張っており、中には子どもの姿もあります。写真を撮っていることがわかっているのか、カメラを向いて笑顔を見せる人や手を振る人の姿も見えます。沿道には多くの人が見物に出ており、お祭りのような楽し気な様子が伝わってきます。
他の2枚は、運搬の休憩と終了後の光景です。場所はいずれも愛宕神社の境内と思われ、休憩の場所は石碑の位置から、本殿東側の「木白神霊建碑」の前であることがうかがえます。
終了の光景の絵はがきの右上に丸く囲まれて写っている人物は、野田の醤油醸造家・初代茂木啓三郎です。明治35年の冷害により困窮する町民への救済事業として、愛宕神社に隣接する西光院の境内に愛趣園を築造し、突抜井・至徳泉の開鑿を行っています。大鳥居の建立に当たっては、鳥居に刻まれた銘文を書いています。
2.大鳥居を手掛けた石工・古谷津浅次郎
大鳥居を手掛けた石工は上町の古谷津浅次郎(以下、浅次郎)です。下町の石工・杉崎家と並んで、江戸時代から明治・大正期にかけての野田町の石材需要に応えてきた古谷津家の11代目に当たります。
大鳥居の他にも愛宕神社本殿の基壇から旧社務所に渡る石造りの神橋(明治37年建設)などにもその名が刻まれています。下記の絵はがきの樽の写真の下に移っている石橋(写真赤丸部分)で、手前の旧社務所とともに向きを変えて境内に現存しています。
古谷津家は浅次郎の頃には愛宕神社近くの本町通り沿いに石材店を構えており、前掲の運搬中の絵はがきにも店舗と石材置き場が写っています。また、3枚の絵はがきをよく見ると、カンカン帽をかぶり「古谷津」と書かれた半纏を着た浅次郎と思われる人物が写っています。運搬中の絵はがきでは石材置き場の前でカメラに向かって笑顔で手を振り、休憩中の絵はがきでは中央で立って何か食べているのか口元に手を添え、終了の絵はがきでは最前列右から2番目に扇子を持って立っています。
石工としての浅次郎の仕事でユニークなものに、野田の三ヶ町夏祭りや神輿パレードなどで担がれている上町のカエル神輿の製作があります。三ヶ町夏祭りに行われる「野田のつく舞」(千葉県指定無形民俗文化財)において、舞手のジュウジロウが雨蛙に扮することにちなんだもので、タウン誌『野田週刊』に昭和30年6月に3回にわたって連載された吉澤可人による「夏祭を憶う」の中に、そのことが記されています。
(前略)
(後略)
下総野田愛宕神社氏子会会長の坂倉鋭一氏によれば、このカエル神輿は愛宕駅近くにあった古谷津石材店の離れで製作され、愛宕神社の神輿蔵に運び入れられました。とても重いため、2回ほどしか担がれていた記憶はなく、お祭りの際も神社に飾るだけのことが多かったといいます。また、口は開閉することができ、子どもたちがよく遊んでいたそうです。昭和49年に、現在も担がれている2代目のカエル神輿を制作する際に、カエルの目玉や台輪に建っている柱が再利用されています。
また、浅次郎は上町区の世話人や愛宕神社の別当寺であった西光院の檀徒総代などを務めたほか、昭和8年(1933)には愛宕神社本殿の棟札が見つかったことを契機として神社の歴史を調査し、その結果を「愛宕神社年暦」としてまとめています。ここに記載される「津久舞之初メハ享和二年夏」という記述が、現在のところ、つく舞の起源を考証する唯一の史料となっています。
3.大鳥居の建立場所
さて、それでは大鳥居はどこに建てられたのでしょうか。記念絵はがきには完成した大鳥居を写したものはありませんが、当時の愛宕神社周辺をとらえた古写真に大鳥居が写りこんでいるものがありました。
この写真は、昭和4年4月19日に行われた野田醤油株式会社初代社長の6代茂木七郎右衛門の葬儀の日の写真です。弔問に訪れたと思われるたくさんの人々が本町通りを埋め尽くしています。屋根よりも高い位置から撮影されているため、火の見やぐらから本町通りを北に向かって撮った写真と思われます。坂倉鋭一氏によれば、かつては現在の京葉銀行野田支店の位置に消防小屋と火の見やぐらがあったとのことで、そこから撮影したものと思われます。昭和30年代に現在の西光院前に移設したといいます。
中央奥の木が繁っている所が愛宕神社で、大鳥居が写っています(写真赤丸部分)。この写真から、大鳥居は現在のように交差点の場所ではなく、愛宕駅に向かう通り沿いにあったことがわかります。木々の間から本殿の屋根も見えており、大鳥居は本殿の正面に建っているように見えます。
これは、大鳥居の建立以前に、愛宕神社前の通り(現在の茨城県道・千葉県道3号つくば野田線)から本殿を撮影した写真です。現在の愛宕神社の参道は曲がっていますが、かつては本殿から通りに向かって一直線に伸びていました。写真には前掲の絵はがき「野田愛宕神社」に写っていた明治37年に建設された旧社務所へ渡る神橋がないため、それ以前の写真と思われます。写っている鳥居は元禄7年の紀年銘を持つ鳥居で、現在も大鳥居と反対の境内の東側出口に建っています。大鳥居もこの鳥居と同じように本殿の正面に建てられたのです。
4.大鳥居の移設と境内の拡張
では、大鳥居はいつ現在の場所に移されたのでしょうか。大正11年の大鳥居の建立当時、現在の大鳥居が建っている場所には、尾張屋という3階建ての旅館がありました。「尾州楼」とも呼ばれ、野田町を代表する旅館の一つとして、明治期の野田を紹介した書籍にも記載されています。
(前略)
(後略)
《宮本鴨北『野田観桃記』、明治28年刊行》
《山口霞村『野田盛況史』、明治38年刊行》
大鳥居の移設は、愛宕神社前の道路工事と愛宕神社境内の拡張が原因でした。前述の「愛宕神社年暦」には、昭和15年に愛宕神社前の道路が県道に編入され多くの家が移転となり、尾張屋の建物も移転したことが記されています。愛宕神社年暦の最後には、「昭和八年九月廿九日記ス」とありますので、この箇所は後に浅次郎が余白に書き込んだものと思われます。
(後略)
また、移転時に同地に住んでいた方が、当館の平成9年度特別展図録『写真が語る野田の歴史と文化 市民がつづる郷土への想い』の中に、「尾張屋の本屋」と題した思い出を寄せており、そこにも道路工事と大鳥居の移設について触れられています。
私の家が池袋から引っ越してきて、愛宕神社の真横、「三階の尾張屋」と有名だった旅館の後を借りて本屋を始めたのは昭和七年だった。その頃尾張屋の建物はもう三階部分は取り壊されて、近くの土地に一階建の住宅として再建されていた。残された家は普通の二階建で、とてつもなく大きい家という印象だった。
(中略)
でも私の家は太光堂書店という看板があるのに、誰もが「尾張屋の本屋」と呼んでいた。
昭和十七年、軍用道路ができるというので、強制的に立ち退きとなり、昭和十八年仲町の杉崎酒店跡(石浪商店前)に引っ越すことになったの。取り壊された尾張屋の跡に愛宕神社の大鳥居が移され、それまで真っ直ぐだった昔の参道が、入口部分矩形になった今の参道になったの。
(後略)
(野田/秋山イツ子氏口述・大正14年生、玉ノ井芳雄氏筆記)
県道編入や軍用道路など書かれている理由に違いはありますが、いずれにせよ道路工事によって大鳥居が尾張屋の位置に移設されたことは間違いないようです。「昭和十七年 町会会議録及議決書編冊 野田町」に綴られた「昭和十六年野田町事務報告並財産明細表」によれば、実際に道路工事が行われたのは昭和16年5月24日から8月31日にかけてで、家屋や鳥居の移転はその前に行われていたと思われます。
当館には、大鳥居の移設が完了した記念に撮影したと思われる写真が残っています。
台紙に記された奉納日は昭和16年5月15日ですが、桜のような花が咲いているため、移設工事は3月下旬から4月上旬ごろに行われたのでしょう。
この大鳥居の移設を含む一連の工事によって旧尾張屋の敷地も愛宕神社の境内となり、境内は大きく広がりました。前述の神橋と旧社務所もこの時に本殿の正面から旧尾張屋の敷地方面へと向きが変えられ、本殿正面の空間も現在のように広くなりました。
また、大鳥居移設の記念写真をよく見ると、右端にわずかに石垣と鳥居が写っています。大鳥居との位置関係からみると、これは先に紹介した明治36年以前の写真に写っていた、大鳥居建立以前から本殿の正面に建っていた元禄7年の鳥居です。この鳥居は大正11年の大鳥居建立後も大鳥居と一緒に本殿の正面にあり、この時に現在の位置である大鳥居の反対側の境内東側出口へ移設されました。一直線だった参道は2つの鳥居に合わせて曲げられ、現在のように愛宕神社交差点の大鳥居と、東側の元禄7年の鳥居へと向かうようになりました。
大鳥居の建立から移設までをたどると、それに関わった人々の姿や愛宕神社境内の移り変わりを感じることができます。
愛宕神社境内にはこのほかにも数多くの鳥居や石碑、境内社があり、それぞれにたくさんの地域の歴史が詰まっています。愛宕神社を訪れた際は、本殿だけでなく様々な箇所を見て、それを感じてみてください。
※本稿の作成にあたり、下総野田愛宕神社氏子会会長の坂倉鋭一氏より様々なご教示をいただきました。厚くお礼申し上げます。
《参考文献》
野田市史編さん委員会編『野田市史編さん委員会調査資料・第三集 野田市宗教施設総覧』野田市役所、1969年
野田市立興風図書館編『野田の史跡を訪ねて』崙書房、1987年
野田市秘書広報課編『野田市制40周年記念写真集 遠ざかる風景』野田市、1990年
野田市郷土博物館編『写真が語る野田の歴史と文化 市民がつづる郷土への想い』野田市郷土博物館、1997年
古谷津順郎『つく舞考』岩田書院、2002年
野田市郷土博物館編『野田の夏祭りと津久舞』野田市郷土博物館、2008年
下総野田愛宕神社氏子会編『下総野田愛宕神社』下総野田愛宕神社氏子会、2011年
宮崎等「野田のつく舞と龍ケ崎」(『龍ケ崎市史研究』第8号、龍ケ崎市、1995年)
上山和雄「野田町の石工・杉崎弥八 その1」(『野田市史研究』第17号、野田市、2006年)
染谷才一郎『野田週刊』第243号、第244号、第245号、野田週刊社
「昭和十七年 町会会議録及議決書編冊 野田町」野田市
(文責:柏女弘道)